パンタグラフ
詩篇第46篇1節の有名なみことば
「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」
これは神様を信じて生活するクリスチャンの実感です。
さて二番目の「神はわれらの力である」とはどういうことでしょうか。
「力」は普通、カロリ−とかエネルギ−とか言われます。私たちは太陽からも食物からも、カロリ−、エネルギ−を受けて生活しています。そして、それらの一切のものは、神様がお造りになり、神様が与えて下さったのですから「神はわれらの力である」とは、わかりやすい真理です。
ですからクリスチャンは、一杯のごはんでも、神様に感謝しないでは食べません。そして、日々神様の恵みによって生かされている生活が、いつもみ心にかない、その祝福に価するものとされるよう、お祈りを続けるのです。
また身体の力、生活の力のほかに人格的な力というものも必要です。意志の強い人というのは、身体の力とは別です。ねばり強い人、数学に強い人、などという場合もあります。
私たちは誘惑をしりぞけ、困難を乗り越え、事業を経営し、家族を養っていくために、どれほどの力を必要とすることでしょうか。また実際人間は、大切な場面で、どれほど自分の弱さを痛感することでしょうか。
しかし、その意味においてこそ、神様は私たちの力の源なのです。電車がパンタグラフをのばして電線に触れることによって力を受けて走るように、クリスチャンも日々、祈りの中に神様の力を受けるのです。
イザヤ書40章に「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得る」とある通りです。 (小林誠一前牧師)
キリストとユダのモデル
館林キリスト教会員に江森明子さんという方がいます。現在イタリアに住んでいます。彼女はイタリアに来た日本人観光客を案内する資格をもち、ミラノにあります最後の晩餐の教会「サンタ・マリア・デル・グラッツェ教会」を案内することもあるそうです。このレオナルドダビンチが書いた最後の晩餐にはこんな逸話があることをある本で読みました。
ダ.ヴインチが、この不朽の傑作を描くのに、数年を要したと言われています。彼は、まず、キリストの顔を描くために、モデルを探しましたが、なかなか見つかりませんでした。ある日、ローマの古い教会の聖歌隊で歌っている、一人の青年を探し出しました。名前はペテロ・.バンダネルと言い、美しい清潔な顔の青年で、彼の日常生活は、その顔のごとく美しいものでした。
「求めていたキリストの顔が、ついに発見できた」と、大変に喜び、早速、ダ.ヴィンチは、この青年をモデルにして、キリストの顔を書き上げました。
それから数年がたちましたが、絵はまだ完成しませんでした。十一人の忠実な弟子たちの姿は、次々と、カンバスに描かれてゆきましたが、ユダのモデルが、なかなか見つかりません。顔は無情のため歪み、品性は賎しく、不品行な生活で、すっかりすさみ切った顔でなければなりません・ダ・ヴィンチは、長い間、こうしたイメージの顔を求めて、モデルを探し回りましたが、ある日、ついにローマの街角で、ぼろをまとい、実にすさんだ顔をした乞食に出会いました。彼はこの乞食を連れて来て、自分のカンバスの前に座らせ、数日かかって、ユダの顔を書き上げました。モデル料を支払って、この乞食を帰す時に、ダ・ヴィンチは、ああ、そうだ。まだ名前をきいていなかったが、君は何という名前かね」と尋ねると、乞食はしばらくためらった後で、「私はペテロ・バンダネルです。数年前に、キリストのモデルとして、あなたのカンバスの前に座ったことがあります」と答えました。
ダ.ヴィンチは、あまりのことに驚いてしまいました。とても信じられません。しかし、彼こそ、まさに、数年前キリストのモデルになった、あの美しい、清潔な神々しい顔の青年ベテロ・バンダネルの、変わり果てた姿であったのです。教会の聖歌隊の一員として、キリストに仕え、キリストのように美しかった彼の顔が、数年の間に、罪に乱れた生活によって、すつかり汚れ、醜いすさんだ顔になってしまったというのです。
(伊藤英雄牧師)
避け所なる神様
旧約聖書詩篇46篇に、次のような言葉があります。
「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」
誰かがクリスチャンに質問するとします。
「ズバリ言って、あなたにとって神とは何ですか」。恐らくクリスチャンの答えは聖書の通りでしょう。
「私にとって神様は避け所です。また力です。悩める時のいと近き助けです」
避け所とは何でしょう。人間は弱い体を守るために、雨には傘、暑さは帽子、寒さはオ−バ−でそれを避けるのです。またそれぞれ家を建てて住んでいるのも、一種の避け所と言えましょう。
しかし用意のよい人間も、心の避け所までは、なかなか用意ができません。難しい問題にぶつかるとき、悩みや苦しみに出会うとき、弱い私たちの心は、嵐を避ける方法もなく、裸で嵐にさらされ、ずぶ濡れというような状態ではないでしょうか。
クリスチャンの子供が学校から帰って来て「明日は先生と、4、5人の友達とピクニックに行くんだ」と言って喜んでいます。お母さんが「おや困った。明日はお母さんが大切な用事で出かけるから、お前は留守番をしていなさい」と言うと、子供はふくれてしまいました。
ところが奥の部屋に入って10分もすると出て来て、もう元気よく明るく、お掃除を始めました。お母さんが不思議に思って「よく早くごきげんがなおりましたね」と言うと、子供は「ええ、今奥のお部屋でお祈りをして来たのよ」と言いました。この子供は、クリスチャンで、日曜学校の生徒だったのです。このお話はお母さんが私にお話してくれたのです。
そこで心を休ませることができる。そこで慰めや励ましを受けることができる。そこで新しい希望と力を回復することができる。そういう本当の避け所は神様です。 (小林誠一前牧師)
心の清い人たちは、さいわいである
キリストが語られた第六番目の祝福は「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう」です。現代では、「頭のよい人、或いは、美人、裕福な人、健康な人はさいわいである」というかもしれません。しかし、キリストは何よりも幸福の源泉は「心が清くなる」ことであることを教えました。
人間は誰でもきよいものをほしがります。きれいな空気、きれいな水、清潔な体、清潔な着物などです。
哲学者のヒルティは「健康は、それ自身、1つの宝であろうが、ときとして、健康でなくても、非常に幸福でありうる」と言っています。また、彼は「私はからだが病気で幸福な人にたくさん見てきた。しかし、心が病気で幸福な人を見たことがない」と言っています。イエス・キリストは「心の清い人は幸いである」と言っています。
「清い」という意味は、原語のギリシャ語ではκαθαροs(カサロス)と言い、きれいな、混じりけのない、純粋な、清潔を意味します。脱穀され、もみがらが取り去られた穀物のことを言う時に使いました。また化合物のない金、みずましいない牛乳やお酒のことを言う時に使いました。
キリストはここで、人は心を清くされることを通して「神を見る<知る>」ことが出来る、と教えています。見えない神をどうすれば知ることが出来るのでしょうか。それは、心が清くなることです。見えない、感じない、触れることのできない電波をどのようにしてとらえますか。それは受信装置を持ってくると、そこから音が出て、キャッチできるのです。見えない神様を知るには、どのような受信装置が必要なのでしょうか。それは「清い心」、キリストの十字架を信じて罪赦された「清い心」こそ、神を知ることのできる受信装置だと言えるでしょう。神から離れている心が、十字架によってつながり、修理されると神が見えるようになるのです。多くの人が罪のために受信装置が壊れて、神の愛の電波をとらえることができないでいるのです。しかし、悔い改めとイエス・キリストを信じる信仰によって、誰でも救われ、心が清められるのです。心が清い時に私たちは神のみ前にお祈りと黙想を通して、神様を見ることができ、そして神様と親しい交わりをすることができるのです。まことに神様を見ることこそ、人間の最大の祝福です。
(伊藤英雄牧師)