館林キリスト教会

トピック集

ステップテキスト

子どもイエス

トピック集(8) 随筆 (古い説教ノートから)

ナザレの大工

 キリストはナザレに住み、大工さんの仕事で生活された。そして三〇才の時、神様の時が来て、彼は家を捨て母マリヤと別れ、公生涯、すなわち直接神に奉仕をする伝道の生活に出発された。
 「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」とご自分でおっしゃったような生活にお入りになったのだ。
 同時に、バプテスマのヨハネが出て、悔い改めを勧める強烈な説教を始めた。これは、いよいよお出ましになるキリストを迎える準備を、人々に命ずるものであった。
 キリストはこのヨハネから洗礼をお受けになった。
 これは彼の公生涯の出発と、献身の象徴であるとともに、すべてのクリスチャンに模範をしめすためであり、彼は実行によって洗礼式を制定されたのだ。
 この後、彼は即座の活動でなく、かえって慎重な祈りに導かれ、荒野で四十日を費やされたが、そこで悪魔の試練を受けることになった。これは次回のお話になるでしょう。

荒野の試練

 キリストは洗礼を受けて、いよいよ公生涯のご奉仕に立ち上がったとき、きっとふたつの強い衝動をお感じになったと思う。
 その一つは、満タンのレースカーのように、全速力でご奉仕に発進したい意欲だったろう。洗礼の時神から頂いたお言葉は、私生涯の卒業証書のようだったし、注がれた聖霊は、公生涯のための十分な準備だったからだ。
 もう一つは、大任をひかえての緊張と恐れ、そして思い切って静まり祈りたいという願望だったろう。キリストはその後者を選択された。そして祈りに四十日を費やし、空腹と疲労困憊に陥った。
 サタンはこの機会に、彼を誘惑し試み、疑惑、不信仰に誘い、その奉仕の根本を誤らせようとしたのだ。
 われわれも試練を受ける。この場合のキリストのように高揚しているときに。また反対に失望した時に。 そしてサタンはいつも神の言葉を逆手に取って「お前は神の子のはずなのにその情けないありさまは何だ」と、われわれを疑惑と不信仰に誘おうとするのだ。

最初の弟子たち

 昔の人は「徳弧ならず必ず隣あり」などと言った。人格の立派な人は決して独りぼっちではいない。必ず友人ができるという意味だ。
 荒野の試練を終わって、ふたたびヨハネのところに姿をあらわしたキリストを、ヨハネは「見よ。世の罪をのぞく神の小羊」と言って弟子たちに紹介した。
 これに続くヨハネ福音書の一章には、最初の弟子たちがキリストを求めて、集るようすが書いてある。  格別に華々しい運動をしたわけでもないのに、やがて十二使徒となるような優秀な弟子たちが、お互いの個人的な紹介、言わば個人伝道で集まってくるようすは実にすばらしい。
キリストでも、ひとりで何もかもやれるものではない。そのみわざの進展のためには、忠実な弟子たちが必要だったのだ。その意味でも、彼の公生涯の出発はめでたいものとなった。
 今朝はこの章を学びたい。昔も今も、キリストの場合も現在の教会も、原則は同じだ。われわれも彼らを見習いたいと願うのだ。

聖餐式

 先週は「キリストの受洗」のお話の中で「自ら洗礼をお受けになることによって、キリストは洗礼式を制定された」と話した。今朝はもう一つの大切な教会の礼典である「聖餐式」について学ぼう。
 いったい一般の宗教が、ほとんど儀式で成り立っているのにくらべて、キリストの教えに従う教会は、ほとんど儀式がない。そのなかで、特にキリストがお命じになった、「洗礼と聖餐」の二つの儀式には、深い意味があるのは当然だ。
 ユダヤ人指導者の、キリスト殺害の方針が決定し、その手段も整ったらしく、キリストにとってはかねて覚悟の最後の夜が来た。
 この夜、弟子たちと守った「過越祭りの晩餐」の席上で、キリストは聖餐式を制定し、これを長く守り行うように弟子たちにお命じになったのだ。
 これは十字架と救いの「記念」であると言われた。またパンと葡萄液のかたちで「心のうちに、信仰によって主のからだを食し、その血にあづかる」、われわれとキリストの信仰の交わりの「確認」でもある。
 またこれによってキリストの死と復活、その救いが「告知」されるのだ。