館林キリスト教会

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小林前牧師 コラム集(28) 「希望のダイヤル原稿」から

 幸福とは何か 2002年10月6日

 山上の垂訓というと、キリストのなさった数多い説教の中で、一番長く、一番立派で、一番有名なお話で、新約聖書のマタイによる福音書5章から7章にかけて記されています。キリストはこのお話を幸福論というものではじめられました。本当の幸福とは何かという問題です。誰でも、一人残らずの人が、幸福になりたいと望んでいますが、しかし本当の幸福とは何かというと、なかなかむずかしいのです。金持ちでも、不幸な人、不幸な家族はいます。立派な家、ピアノ、自動車、ステレオ、文学全集、いろいろ考えますが、自分の幸福を、建築屋さんに頼んだり、デパートに電話をかけて取りよせるというものでもありますまい。では、本当の幸福はどこにあるかという問題に対して、キリストは七つの幸福をあげています。ほかの条件がどんなにそろっていても、これを欠くならば幸福ではない。反対に、よしんば、ほかの条件がいくらか欠けていても、これがあれば幸福だという、言わば、幸福のきめ事みたいなものでしょう。その第一は次のようです。「心の貧しい人たちは幸いである。天国は彼らのものである」です。心の貧しい人というのは、"謙遜な人"という意味です。謙遜な人が集まっている。そこは天国のようです。傲慢な人が集まっている。そこは地獄のようになるのです。家族でも、学校でも、職場でも、社会でも、この原則は同じです。本当に考えてみれば、おいてある茶碗につまずいて、割ってしまったご主人が、「誰がこんなところに茶碗をおいたのだ」とどなると、出てきた奥さんは、「何言っているのよ。自分のおっちょこちょいを棚に上げて、どなりさえすればよいと思って」と言うでしょう。反対に、「あっ俺が不注意だった。わるいけど片付けてくれ」といえば、奥さんが「あっごめんなさい。うっかりそんなところにおいたものだから」というのとどっちが良いでしょう。それで子供たちの態度もきまってくるので、案外、これが、幸福と不幸のきめてなのかもしれませんね。

 おじいさんの祈り 2002年10月13日

 大分前のことですが、館林教会の集会に一人のおじいさんが来はじめました。よく集会に来て、お話を熱心に聞いています。ある時私が「おじいさん、あなたのために神様にお祈りしてあげましょう」と言いますと、ていねいに「お願いします」ということでした。私はそばに座ってお祈りをはじめましたが、どうも変な感じなので、おじいさんをちょっと見ると、おじいさんは大きな目で、お祈りする私をじっと見ているのです。私は「おじいさん。お祈りの時に目をあけていてはまずいから、目を閉じて、心の中で私と一緒にお祈りして下さい」と言いますと「はあ、そうですか」といって、今度は心の中で、私と一緒にお祈りしたようでした。まず最初はそんな調子でした。よく本を借りに来て、聖書や信仰の本を読んでいたようでした。ある時家内が「おじいさん、お家でもよく、自分でお祈りしていますか」と聞くと「お祈りはしたいが、どう祈っていいのかわからない」ということでしたから、家内がわかりやすく、お祈りの要領を紙に書いてあげました。
 実はこのおじいさんは、全く孤独の人でした。どこかの家に世話になっていたのです。しばらくたって、このおじいさんが亡くなったという話を聞きました。それも夜中に、眠るように亡くなり、朝になってから、まわりの人が気がついたのです。枕もとに、聖書と、老眼鏡と、家内の書いてあげたお祈りの紙が開いておいてありました。近所の人も、あのおじいさんは教会に行っていたから、あんなよい死に方ができたと、評判でした。
 このおじいさんが、神様にお祈りすることを覚えてから、毎日毎日、どういうことを神に祈ったのでしょうか。孤独の老人は誰にも訴えられない、相談できない一つの強い願いがあります。それはあまり苦しまず、人に迷惑をかけず、やすらかに死にたいということです。おじいさんは、そのことを毎日祈ったと思います。神様はその祈りに答えて下さったと思います。私はそう思っています。
 聖書の言葉、ピリピ人への手紙4章6、7節「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」

 お静かに 2002年11月3日

 私は若い時、長野県のいなかで伝道していたことがあります。そこではよく「お静かに」という挨拶をしていました。私はこの「お静かに」という挨拶が好きで、今でも忘れません。
 たとえば、誰かがご飯を食べていると「お静かに」と言います。また、旅行に出発する人を見送る時にも「お静かに」と言います。
 いつも静かな心で食事ができ、いつも静かな心で旅行ができ、静かな心で仕事ができ、静かな心で人とつき合えたら、人間は幸福だな、とつくづく思います。
 キリストが、ヨハネによる福音書14章で「あなた方は、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」とおっしゃったのも、同じような意味かと思います。
 しかし実際の私たちの生活のことを考えると「お静かに」どころではなく「心を騒がせる」ようなことばかり多いのです。仕事が忙しくて、あくせく、せかせかしています。サラリーマンや学生が、駅で、アンパンやそばの立ち食いをしています。腕時計を見ながら、目を白黒させながら食べています。子供は勉強しながら、ジャガジャガ、ラジオを聞いています。本当に賑やかな世の中です。
 それに人間関係がむずかしくて、いつも腹を立てたり、ムシャクシャしています。いろいろ考えると心配や不安がこみ上げてきて、夜もおちおち眠れないことがあります。
 そういう生活の中では、いわゆる「食えども味わい知らず」で、本当の喜びや幸福を経験することはむずかしいのではないでしょうか。
 キリストは「心を騒がせないよう」に、私たちにすすめます。そして、そのために必要なのは「神を信じ、キリストを信ずること」と教えています。神様のことを学び、神様にまかせることを学びましょう。どんなことでも、自分一人で考えていないで、神様に祈りましょう。忙しい生活の中でも、神と共に歩みましょう。その時に「騒がしい心」の反対に「静かな、平安につつまれた」心の生活がはじまります。

 植物人間 2002年11月10日

 ビクトル・フランクル博士という人は、ウィーンの精神分析学者で、精神科のお医者さんとしても有名でした。ところがユダヤ人であったために、ナチス・ドイツにつかまって、あの恐ろしい、アウシュビッツの収容所に入れられました。奥さんと子供は引きはなされましたが、結局殺され、博士は不思議に死をまぬかれて、社会に戻ることができました。
 博士は精神分析学者の目で、収容所の中の、言わば人間の極限状態を観察しましたので、それを「強制収容所における一心理学者の体験」と言う本で発表しました。人間は沢山の連続的ショックを受け、継続的な恐怖と緊張の中におかれると、一人のこらず、無感覚、無感動、無表情の植物人間になってしまう相です。ショックというのは、門の中に、いくつもブラ下がっている、今日絞首された人の死体を見たこと、裸にされること、ドナラレルこと、なぐられること、が始まり、それがだんだん日常のことになってゆく。一人残らず頭を剃られ、番号のイレズミを入れられる。慢性的飢えの状態がつづく。友達が他愛なく処刑されるのも、日常的です。
 やがてみんな植物人間になって、しもやけで黒くなった自分の指を、引っぱってみて、ポロリと取れても、隣の人が昨夜のうちに死んでいても、無表情です。ムシ歯もない。かぜも引かない。下痢もしない。そういう状態では、社会的な階級の上下、教育のあるなし、ふだんの健康状態などは関係なしだ相です。
 そういう中で、自殺もせず、発狂もせず、病死もせず、最後まで頑張るのはどういう人かというのが博士の研究ですが、博士がいろいろ挙げてある中に「愛」があります。つまり、沢山の人との愛の記憶をゆたかに持っている人、現在も(会うことは不可能ですが)それでも、人を愛している、愛されている、という自覚の多い人、そういう人が、案外ネバルのだ相です。不思議ですね。
 聖書の言葉
「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」コリント人への第一の手紙13章13節です。