館林キリスト教会

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小林前牧師 コラム集(18) 「希望のダイヤル原稿」から

 恵みといつくしみ 2001年1月7日

 ダビデ王は旧約聖書23篇を書いて、その中に、自分の生涯の経験と信仰を示しました。そして神様は羊飼いで自分は一匹の羊のようだと言っています。
 さて一介の羊飼いの少年から、イスラエルの王様にまでなったダビデ王は、成功した人の見本のようなものです。それこそもう何も心配する必要のない身分のようです。しかし賢明なダビデ王は、たとえ王様であっても絶対に安全と言うことは決してないことを知っていました。明日どんなことが起こるか。それが分からないのは庶民も王様も同じ事なのです。
 今は成功し、しかも老人になっているダビデ王は考えたでしょう。あと何年くらい生きるのか。そしてその生きている間にどんなことが起こるのか。彼はこの詩篇の中で、一つの結論を歌っています。それが詩篇23編の6節です。
 「わたしの生きているかぎりは必ず(神の)恵みといつくしみとが伴うでしょう。」そして死ぬときが来たら「わたしはとこしえに主の宮(すなわち、天国の意味です)に住むでしょう。」
 ここに言われている「恵みといつくしみ」というのは、たとえば親が子供を愛するような、羊飼いが羊を愛するような、理屈抜きの愛です。ダビデはキリストの十字架によって、神様が悔い改める者の罪を許してくださることを知っていました。そしていつも神様は私たちを恵みといつくしみをもって守り導いてくださることを知っていました。何一つ確かなもののない人間の生活、何が起こるのか誰にも分からない前途。しかし、どんなことがあっても、どんなところに行っても、神の恵みといつくしみは伴ってくださる。これだけは確かで確実で、変わることがない、アテにできる。それで私は安心だ。幸福だというのですが、これは何と素晴らしい信仰でしょうか。またこういう信仰を持つことは、何という人間の幸福でしょう。あなたも聖書を読み、教会に来て、この信仰を学んでください。

 ファウスト博士 2001年1月14日

 むかし、ドイツのファウスト博士は、一生を学問に打ち込んで暮しました。おかげで大学者になりましたが、年をとってみると、何だか自分の一生が物足らないように思えて来ました。
 「ああ、わたしは、あらゆる学問を底の底まで研究した。人に大学者と奉られているが、実はこの愚かで哀れな私は、ちっとも賢くなっていない。結局わかったのは、人間には何も知ることができないということがわかったぐらいのものだ。穴ぐらのような書斎、積み上げられた本の山。これが私の世界だ。一体これが世界と言えるだろうか」
 そこへ、メヒストヘレスという悪魔がやって来て「どうです。もう一度楽しく、自分の思うように人生をやり直させてあげましょうか」と言いました。最後に魂を悪魔に渡すという条件でした。
 しかし「悪魔に魂を渡す」という条件で、悪魔からいろいろ提案を受けるのは、ファウスト博士だけではありません。悪魔はある人には金を見せびらかします。人間は金があれば何でもできる。金があること即幸福だ、という調子です。そこで悪魔に魂を渡したっていい、という気になることもある。強盗も誘拐も、政治家の賄賂も、同じケ−スではないでしょうか。
 何か淋しい心境の人、また反対に人生に夢ばかり描いている人には、とてもロマンチックな、あるいは刺激的な誘惑を持って来ます。そして悪魔にだまされた結果は、世間話や週刊誌のたねとなり、魂のぬけがらのような人生しか残らなくなります。
 キリストが悪魔の誘惑をうけたとき「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る、一つ一つの言で生きるものである」という聖書の言葉を引いて、悪魔に勝利をおとりになった話は有名です。
 あなたも、ご家族も、神様と聖書によって、悪魔の誘惑に負けない人になって下さい。

 自信の欠如 2001年2月4日

 アメリカのある大学の、心理学の教室で、「今、自分の困っている個人的な問題は何か」というテーマで、学生からアンケートから取ったところが「自信の欠如」と答えた人が75パーセントいた相です。
 「自信の欠如」ということは、別の言い方をすれば劣等感で困っているということでしょうね。劣等感に捕らわれると、イライラ、ビクビク、グズグズしていて、自分の持っている能力を充分に発揮できないというのは、現代人に共通した悩みであるかも知れません。
 こんな話があります。昔中国で、有名な孔子の弟子たちが先生に質問しました。
「昔から中国にも、英雄豪傑の話がずいぶんありますが、先生がお考えになると、本当に強い人とはどういう人なのですか」
 「それは自分で反省してみて、良心にとがめられるようなことのない人が強い。そういう人は千万人が敵対しても、どんどんやっていく自信がある。反対に良心にやましいところがあると、気おくれがして勇気が出ない」と孔子が教えてくれた相です。
 聖書の中に「悪しき者は追う人もないのに逃げる、正しい人はししのように勇ましい」とあるのも似たような意味でしょう。私たちは生活の問題、家庭の問題、仕事の問題、人間関係の問題を乗り越えてやってゆかねばなりません。人生は本当に戦争 です。そのために、聖書は二つのことを教えています。
 第一に、いつも反省して自分の罪を神様に悔い改めなさい。そしてキリストの十字架を信じなさい。私たちの心は、自分の全ての罪が許されている、という確信で明るくなるでしょう。
 第二に、事の大小となくお祈りして、神様に助けを求めなさい。神様を信ずる人には、新約聖書ローマ人への手紙8章31節にあるように「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」という確信と勇気が与えられるのです。

 かれすすき 2001年2月11日

 新約聖書マタイによる福音書12章にキリストのことについて、次のように言われています。「彼は争わず、叫ばず、(これは腕ずく、力ずくということや、大声で怒鳴りつけて相手を黙らせるようなことは決してしないと言うことです)またその声を大路で聞く者はない。(大勢の勢いで押し掛けてくるようなやり方もしない、ということです)彼が正義に勝ちを得させる時まで(これは今の世の中には罪や不正がはびこり、誘惑に負けて、ついつい罪を犯す人も多いが、これを神の力によって、きよめられた正しい世の中にするまで、という意味で、これこそキリストのお仕事なのですが)いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。異邦人は彼の名に望みを置くであろう」
 「痛められた葦」というのは、我々の言葉で言えば「俺は河原の枯れすすき、同じお前も枯れすすき、どうせふたりはこの世では花の咲かない枯れすすき」という歌のように、弱く価値のない人間のことですが、キリストはそういう人でも、何とかしようと、一生懸命面倒を見てくださると言うことです。
 「煙っている燈心」は、いわば今にも消えそうな風前の灯火のことですが、キリストはそういう、くすぶった人間でも、吹き消してしまわないで、何とか燃え上がらせてくださるのです。
 「異邦人は彼の名に望みを置くであろう」それだから、キリストのお名前を聞けば、どんな人だって希望を持つことができる。どんな時でも、希望を持ち立ち上がることができる、と言う意味です。
 私たちは自信を持って張り切っている時もあるし、物事がうまくいって「人生はいいぞ」ということもあるが、反対にどうも自分がつまらない人間のように見えて、しょんぼりすることもあります。調子のいい時、いい気になりすぎて失敗しないように、しょんぼりしすぎて行き詰まらないように、キリストを信じ、祈りましょう。