館林キリスト教会

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小林前牧師 コラム集(17) 「希望のダイヤル原稿」から

 羊飼いの詩 2000年11月5日

いま、美しい信仰の詩を朗読します。
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
 主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
 主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。」
 これは旧約聖書にある詩篇第23篇です。羊飼いの詩として有名なものです。なぜかというと、ここでは神様を羊飼いに譬え、人間を羊に譬えているからです。
 この聖書の背景になっているパレスチナ地方では、人々は非常な努力をして雨水を貯め、湖水の水を引きあげて、国中に水を配り、スプリンクラーで野原や畑に注ぎ、言わば、人工の雨で耕地をつくっています。もともとこの地方は、雨が少なく土は少なくて、岩や石が多く、人の生存が楽でない厳しい土地なのです。また羊という動物は本来弱くて愚かで、団結心がなく、自分で餌を探すこともできない、迷えば一人で帰ることもできない、敵と戦うこともできない、逃げるのも遅い。いわば、生存に適さない動物なのです。
 ところが、この生存に適さないパレスチナの荒地に、この生存に適さない羊がいっぱいいます。なぜでしょうか。それはどの羊の群れにも必ず羊飼いがいて、羊をかわいがって、守り導き養っているからです。
 私達もある面では羊のように弱く迷いやすく、すぐに途方に暮れます。そして、私達の生活と環境は厳しいのです。しかし神様を信じ祈って生活するクリスチャンは、この詩人のように言うことができるのです。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。」少し連続してこの有名な詩篇23篇のお話をしましょう。

 死の陰の谷 2000年11月12日

 続いて「羊飼いの詩」として有名な旧約聖書の詩篇23篇のお話をいたしましょう。
4節に「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。」とあります。
 羊飼いも都合によっては、暗い険しい恐ろしい道を、羊を連れて通ることもあります。羊は臆病な動物ですから、怖がって足をすくませてしまいますが、そういうとき羊飼いは声をかけたり、抱いたり、さすったりして羊を元気づけながら歩かせるのです。
 私たちも人生の旅行中に、恐ろしい、こわい、自分では通り抜けられないところに差しかかることがあるし、いよいよ最後には死ななければなりません。しかし、平素から神を信じていて「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。」と言える人は幸福です。
 ある人がウエスレイ牧師に言いました。
 「もしあなたが明日の夜中の12時に死ぬことが分かったらどうしますか」
 ウエスレイ牧師は答えました。
 「そうですね。やっぱり今立ててある予定通りにします。今夜と明朝はグロスターでお話し、それから馬でチュウクスベリーにゆき、午後と夜も集会でお話します。その夜は友人のマルチンの家に泊まる予定です。皆と話した後、お祈りして10時に、いつもの通りベッドに入るでしょう。夜中に死ぬのが神様のみ心なら、翌朝は天国で目が覚めます」と言いました。
これが神様を信ずる人の心の平安です。この牧師はいよいよ亡くなるときは
 「我々にとって一番幸福なことは神様が一緒にいて下さることだ」と何回も言いながら息を引き取りました。そして天国に行きました。

 敵前のパーテイー 2000年12月3日

 旧約聖書、詩篇23篇5節。「あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。」
この節には「敵前の宴会」「敵前のパーテイー」という題をつけることが出来るでしょう。この詩篇を作ったダビデ王は、王様だけにたびたび、公的にも私的にも、大勢のお客様を招いて、豪奢な、美しく、楽しい宴会、パーテイーを開くことがあったでしょう。これはとても楽しみだったと思います。
しかしよく考えてみると、集まってくるお客様の立場も、利害関係も複雑です。ダビデ王とて一国の国王ですから、様々なライバル、様々な敵に囲まれているのが実感だったでしょう。そういう複雑な立場と関係の中で、平和に楽しく、にぎやかにパーテイーを開くことができる。これも常に神様が守ってくれるからだ。これこそ神を信ずるダビデ王の信仰と感謝のあらわれなのです。
我々の生活でも、考えてみると、経済問題、つまりお金と生活のこと、健康のこと、家族のこと、人間関係のこと、どれ一つを取ってみても、一度まずくなったら、大変な問題に囲まれています。そういう中で、毎日を明るく楽しく豊かに生活するために、神様の助けと祝福を求めてゆかなければなりません。
一国の王様でありながら、謙遜な態度で、自分を一匹の弱く愚かな羊のように考え、羊飼いである本当の神様に深くより頼んだダビデ王に、私たちも学びたいものです。
 「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。」
むかしから「羊飼いの詩」と呼ばれている、この詩篇23篇は、本当に美しく実感あふれる信仰生活の証です。

 香水のサービス 2000年12月10日

 ダビデ王によって作られた有名な詩篇23篇。これは旧約聖書の中にありますが、しばらくこの聖書のお話を続けております。
5節の「あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。」というのは、ダビデ王によって催される盛大な宴会の場面でしょう。
 「わたしのこうべに油をそそがれる。」というのはお客様に香水を注ぎかけるというサービスのことです。
 一体ユダヤ人は香りに敏感な民族で、女の人のおしゃれでも、白粉よりもむしろ香水がポイントだったそうです。聖書の中にも香水のことが沢山でてきますが、これは品性、人格の象徴になっています。
 人格の美しい人は、表情からも、言葉からも、動作からも、生活からも、すてきな香りが立ちのぼってくるようです。人格の美しい香り。これが本当の人間の美しさです。
 これに反してどんなに、きれいに着飾っても、また上品がった態度を真似てみても、香りだけはごまかせません。低級な人は低級な香りです。ちょうど色や形は本物そっくりに出来ていても、造花にはにおいはつけられないのと同じです。
 ダビデ王の宴会に、香水のサービスを受けて、素晴らしい香りをプンプンさせたお客様が集まっている様子を想像すると、とてもすてきな場面です。
 私たちには、自分勝手、意地わる、やきもち、下品、低級になりやすい性質がありますから、悔い改めと信仰によって、心と生活を整えて頂き、お祈りによって心の中に、神様の恵みの香水を注いで頂きたいと思います。みんなが神様の香水のサービスを受けるようになったら、それは私たちにとって、どんなに嬉しい、誇らかなことでしょうか。私たちの家庭も、一切の人間関係も、何と素晴らしいものになるでしょうか。