館林キリスト教会

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小林前牧師 コラム集(12)

 岩だぬき 2000年2月13日

旧約聖書の箴言は、信仰と哲学で昔から有名なソロモン王の集めた、ことわざ、格言集です。その30章に、あり、岩だぬき、いなご、やもり、と4つの小動物を挙げて、彼等の生きる知恵を見習うように勧めているところがあります。
「一体世の中には象やライオンのように大きくて強い動物だけでなく、こんな小さな弱い動物もそれぞれちゃんと生きています。我々も、いかにも彼等らしい生きる知恵を学ぶ必要がある。」ということでしょう。
その第二に「岩だぬきは強くない種類だが、その家を岩につくる」とあります。
岩だぬきというのは、聖書の地方に住んでいる小さい弱い動物です。しかし感心なことに、自分が弱いことを心得ていて、大きな岩の間に巣を用意して、何事かあるとすぐ逃げ込んでしまうのです。
人間もやはり、弱い、傷つきやすい、くじけやすい所がありますから、いざという時に、その心を休め、くつろげ、新しい力を回復する場所が必要です。そして、神様を信じ、祈ることは、私たちの心の安息所なのです。
 ある社長さんが過労のため心臓と胃をわるくしました。医者に勧められて二週間ばかりの休暇を取り、有名な保養地へ行って休みました。
しかし保養地でも実際には、社長さんの心は一向休みませんでした。
 そろそろ帰る頃になっても休養の効果は見えません。淋しくなって、近くの教会に行ってみました。
牧師は「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者(即ち神を信じる者)は新たなる力を得る」という旧約聖書イザヤ書40章からお話をしていました。
社長は「先生、この聖書は私のような者でも、そのとおり体験できるのですか」と聞きました。牧師は「はい、できます」と答えました。そこで社長は先生の指導を受けて、神を信じ祈るようになりました。
その後も、この社長はやはり多忙です。しかし心の中に平安を得て、健康も回復したそうです。

 いなご 2000年2月20日

 旧約聖書、箴言第30章に、小さくて弱い一見生存競争に耐えないような4つの小動物が出てきます。彼等は小さくて弱いが、それなりの知恵をもって精一杯に生きています。「人間もその知恵を学びなさい」ということです。
その中にはいなごもいます。
「いなごは王がないけれども、みな隊を組んでいで立つ」と書いてあります。
 中東地方では、いなごの大群が押し寄せて来ると、太陽も見えなくなる程で、作物も果物もみんな食べられてしまいます。レ−ルの上で踏みつぶすいなごの油で、汽車が脱線するくらいです。
ところがこのいなごには王様がいません。従って法律もない。警察もない。刑務所もない。それでも、秩序整然と団体行動を取って、決して違反者や犯罪者は出ません。思うにいなごは本能的に集団行動をしているのでしょう。
ところが反対に人間は本能的に自分勝手で、ともすれば秩序規律を破りたくなります。「見つかりさえしなければかまわない」という調子ですから、それを、やれ法律だ、やれ警察だと外側から押さえて行こうというのは、とても大変で、むずかしいことだと思います。多くの事件も、犯罪も、交通事故も実は深い人間の本性から出てくる問題なのではないでしょうか。
本当の解決は、人間の心の変化以外にはないでしょう。聖書は神の力により、キリストの救いによって、人間の心を根本から変えてくださる、救いを教えています。
聖書の言葉
「わたしの内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。…わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。
わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。…今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。」
ローマ人への手紙7章16節〜8章2節   「希望のダイヤル原稿」から 

 やもり 2000年2月27日

 栄華を極めたソロモン王、彼は学者としても有名ですが、人生に役立つ彼の教訓を集めた旧約聖書箴言。その30章に4つの小動物を挙げて、人間がその生き方の知恵から教訓を得るように勧めています。
 やもりについては「やもりは手でつかまえられるが、王の宮殿におる」と書いてあります。なるほどやもりはきたならしい気味の悪い虫けらです。見つかればすぐ捕まえられてポイと捨てられてしまいます。ところがやもりは、独特の柔軟な体と手足にある吸盤のおかげで、くねくねぴたぴた案外なところに入ってゆく。なかなか平民では近づけない、王宮の壁や天井裏に住んでいるわけです。
 「教会とかクリスチャン生活などは、俺には向かない。俺はそんながらではない。そういう生活が良いということは分かるがとてもとても。」よくそんなことを言う人もいます。しかし人間、自分の生活に良い野心を起こして、もっときれいなもっとノーブルなもっと神の祝福に満ちた生活に進むことは幸いです。それには、やもりの体のように、謙遜で柔らかく、神様に従う心、またその吸盤のように、ねばり強く祈り、神を求めてゆく信仰が大切です、全ての人は神の祝福の生活に、そして最後には天国に入ることが出来るのです。
 好地由太郎が16歳の時、金を盗み人を殺し家に火をつけて捕まり、牢に入ったとき、ふとキリスト教を知って信仰生活の志を立てました。ところが彼は聖書を読もうにも、全然字が読めなかったのです。それで同室の行商人の男にマッサージをしてやり、食べ物や湯たんぽをまわしてやり、代わって雑用をしてやりました。その代わり、アイウエオから文字を教えてもらって、牢の中で一人で聖書を勉強しました。彼はクリスチャンとなり、模範囚となり、出獄後牧師となり、沢山の人を信仰に導いたのです。   「希望のダイヤル原稿」から