館林キリスト教会

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小林前牧師 コラム集(10)

 聖書のプロフィール 救いのリンク 1999年12月5日

 新約聖書には、神様による我々クリスチャンの、五つの救いのリンクが書いてある。
1. 「神の予知」
 ローマ書(8:29)「神はあらかじめ知っておられる者たちを、御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった」。
2. 「神の予定」
 エペソ書(1:4、5)「神は、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、神の子たる身分を授けるようにと愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである」。
3. 「神の招き」
 ロマ書(8:30)「そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」
4. 「神の義」
 ロマ書(5:1)「わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」。
5. 「最後の栄光」
 第1ペテロ(1:7)「あなたがたの信仰はためされて、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう」。

 聖書のプロフィール 新約聖書の著者 1999年12月12日

☆ 新約聖書の著者は、この大切な使命のために、特に主によって選ばれた人たちだ。彼らは特別な神の力を与えられた。また聖霊に満たされた。聖霊は彼らに霊感を与え、鼓舞し、彼らのペンを導いた。彼らは、証を明らかにするために力を尽くしたが、その間、聖霊が彼らのインストラクターだったのだ。
使徒行伝(4:19、20)「ペテロとヨハネとは言った『わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない』」。

☆ 新約聖書は8人の著者によって書かれた。
「マタイ」は人に軽蔑されていた取税人だったが、主の説教を克明に筆記した。
「ペテロ、ヨハネ」は漁師上がりで無学な労働者だった。パウロ、ルカに比べると、非常に少ない語彙でそれぞれの聖書を書いた。
しかもヨハネは、もっともキリストの霊の深奥にふれた「キリスト伝」すなわち「ヨハネによる福音書」を執筆したのだ。
「マルコ」は、キリストの生涯の各場面を、もっとも絵画的に印象深く描写し、それを一番短い福音書にまとめた。
「ルカ」はギリシヤ人の学者として、歴史的、客観的なキリスト伝「ルカによる福音書」と、これに続く弟子たちの活動記録「使徒行伝」を執筆した。
「パウロ」は、天才的な学者、指導者だった。新約聖書の3分の2を執筆し、ほとんどの初代教会を建てあげた。しかしその職業はテント織りだった。
「ユダ」は、素直でエネルギッシュな筆法で、彼の聖書「ユダの手紙」を書いた。
「ヤコブ」は、クリスチャンの実践的な教えを、幾分厳しい言葉で書き残した。

 ヘロデ大王 1999年12月19日

 同じ学者でも、ヘロデ王のお抱え学者たちは、3人の博士と違う。キリストの生誕地を聖書から調べだしても、礼拝に行こうとはしなかった、怠け学者だ。
 新しく生まれた「ユダヤ人の王」すなわち「救い主キリスト」を礼拝に来たと言う博士たちの知らせを聞いて、ヘロデ王は「不安を感じた」という。実はヘロデはいつも不安を感じつつ生きていたのだ。
 彼はエドム出身者で、腕力、戦闘力、政治力(良い意味でも悪い意味でも)にたけて、ユダヤのハスモニヤ王家のもめ事に乗じて、王女の婿になり、結果的には、その当の王女、その父王、兄弟たち、彼女との間にできた自分の子供たちまで殺し、ハスモニア家の血統を絶って、自分が王になった人物だ。
 その後も彼の宮廷には常に流血がつきまとい、ローマ皇帝が「ヘロデの家族よりも、その豚の方が安全だ」と言ったほどだった。
 国民、家臣、家族、あらゆるものを疑い、いつも敵対者を想定し、策謀を邪推し、今も幼いキリストさえ、危険なライバルとしか見ない男だった。そして幼児キリストを殺そうとして、有名な「ベツレヘムの虐殺」を実行した。
 彼らは誤ったクリスマスの実行者だ。

 避け所なる神様 2000年1月2日

 旧約聖書詩篇46篇に、次のような言葉があります。
 「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」
誰かがクリスチャンに質問するとします。
「ズバリ言って、あなたにとって神とは何ですか」。恐らくクリスチャンの答えは聖書の通りでしょう。
「私にとって神様は避け所です。また力です。悩める時のいと近き助けです」
 避け所とは何でしょう。人間は弱い体を守るために、雨には傘、暑さは帽子、寒さはオ−バ−でそれを避けるのです。またそれぞれ家を建てて住んでいるのも、一種の避け所と言えましょう。
 しかし用意のよい人間も、心の避け所までは、なかなか用意ができません。難しい問題にぶつかるとき、悩みや苦しみに出会うとき、弱い私たちの心は、嵐を避ける方法もなく、裸で嵐にさらされ、ずぶ濡れというような状態ではないでしょうか。
 クリスチャンの子供が学校から帰って来て「明日は先生と、4、5人の友達とピクニックに行くんだ」と言って喜んでいます。お母さんが「おや困った。明日はお母さんが大切な用事で出かけるから、お前は留守番をしていなさい」と言うと、子供はふくれてしまいました。
 ところが奥の部屋に入って10分もすると出て来て、もう元気よく明るく、お掃除を始めました。お母さんが不思議に思って「よく早くごきげんがなおりましたね」と言うと、子供は「ええ、今奥のお部屋でお祈りをして来たのよ」と言いました。この子供は、クリスチャンで、日曜学校の生徒だったのです。このお話はお母さんが私にお話してくれたのです。
 そこで心を休ませることができる。そこで慰めや励ましを受けることができる。そこで新しい希望と力を回復することができる。そういう本当の避け所は神様です。