館林キリスト教会

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小林前牧師 コラム集(4)

 ボキャ貧 1999年6月20日

 小渕総理大臣は、話しがつまらないとか何とか言われたのだろう。いつか「わたしはボキャボラリー(語彙)が貧しいから、話も精彩を欠くのだ」とか、自分も言ったそうで、新聞などに一時「ボキャ貧」という言葉が流行した。
 「ボキャ貧」かどうか知らないが、日本の政治家の話は、抽象的で、決り文句の羅列で、たいてい面白くない。具体的な本音の方は、待合の会合か何かの為に取っておくのだろう。
 よくテレビで、英国のチャーチル首相や、アメリカの、狙撃されて亡くなったケネディ大統領などが話すのを見たが、聴衆は時々爆笑していた。日本ではそんな景色は見られない。
 わたしは、チャーチル首相、リンカーン大統領の演説集を持っている。立派な演説がそろっている。彼等は自分で演説のノートを書くのだそうで、大した物だ。
 学校の受け持ちの先生も、子供にとっては、正直言って当たり外れがある。
 忘れられない良い先生も居た。
 ある時、何がきっかけか忘れたが「君たちは自分の頭の重さを知らないな。頭は案外重いものだぞ」と言って少し考えて「砲丸ぐらいあるぞ」と言ったのを良く覚えている。一発で子供にも分かったのだ。
 受け持ちの先生が休んで、えらい先生が臨時に教えに来たことがある。ちょうど地理の時間で「どこそこは毛織物の輸出が多い」と言うところで、自分のジャケットのシールを見せ、「これもその国から輸入したものだ。お前たちも見てみろ」という。みんなで見ると、たしかに「メイド・イン・何々」がいくつかあった。「つまり日本人の何パーセントは、その国の毛織物を着ているのだ」という説明が面白かったので、普段の先生との差は、子供の目にも明らかだった。
 この間「テトスの説教」のときに、誰も良く知らないクレテ島の話が出た。私は数字に弱いので、市川先生にデータを見せて計算してもらい、「島の広さは群馬県の(1.3倍)、人口は(4分の1)、いまはさびしい島だ」と説明した。
 こういう話し方で、会衆にぴんと来たとすれば、これも子供の頃の、先生の影響が残っているというものだ。

 虻蜂とらず 1999年6月27日

 この間、週報の「創世記交読文」に「ヤコブの悪知恵は結局『虻蜂取らず』に終わった」という「ことわざ」を書いた。市川、伊藤両先生と家内に聞いてみると「何となく分かる」と言うので使った。ただ「虻」という字を読めない人がいるかもしれない、というので「かな」をつけた。
 初めから「両方とも失ってしまった」と書けば分かりやすいが、それでは文章のめりはりがなくなってしまうのだ。
 同じ意味のことわざに「二兎を追うものは一兎をも得ず」というのがある。もっと悪い場合を「あぶも取らずに蜂に刺される」というそうだ。
 外国には「二つの椅子の間に尻餅をつく」という「ことわざ」があるそうだが、同じ意味だろうか。
 反対に、両方うまく行くと「一石二鳥=石を一つ投げたら、二羽の鳥に当たった」とか「一挙両得=ひとつの行為で二つ儲かる」と言われるのだ。
 旧約聖書のなかにも、むかしのイスラエルの「ことわざ」「格言」を集めた聖書があるのも興味深い。
 それは「箴言=lv'm' (マシャール) 」で、「ことわざ、たとえ、皮肉」という意味だが、なかなか辛らつな言葉も多い。
 題の「箴言」は昔の中国の漢文訳をそのままいまも使っているので、漢文の意味は「竹製の針」だ。これを体に刺して病気の治療をした。つまり「痛いけれども利く」ということなのだろう。
「(6:9-11) なまけ者よ、いつまで寝ているのか、いつ目をさまして起きるのか。
 しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む。
  それゆえ、貧しさは盗びとのようにあなたに来り、乏しさは、つわもの(強盗)のようにあなたに来る」。
 「怠慢」の恐ろしさは泥棒、強盗以上だ。
「(30:24、25 )この地上に、小さいけれども、非常に賢いものがある。 ありは力のない種類だが、その食糧を夏のうちに備える。」
 「(19:21)人の心には多くの計画がある、しかしただ主のみ旨だけが堅く立つ」。
 「(16:33 )人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである」。
 いくらでもあるが、みなさんも時々開いてお読みになると、ためになりますよ。
                (注意:ヘブル語の部分は正しく表示できません)

 「花の日訪問」お礼の手紙 1999年7月4日

「佐川喜彦くん、鈴木 峻くん、
 この度、花の日の贈り物に大変きれいな壁かけのお便りをいただき、まことにうれしく心からお礼を申します。さっそく壁にかけましたが、お部屋の中が明るく楽しくなりました。
 そして、自分も幼い時に通った日曜学校のことがいろいろ思い出されて、なつかしい気持ちで胸がいっぱいになりました。遠い昔の思い出です。
 4、5才の頃、今から87、8年も前のことです。わたしは兄さんにつれられて、とても遠いとなり町にある、日曜学校に通いました。
 曲がりくねった長い坂道を歩きます。3キロメートルぐらいあります。碓氷峠のふもとの町で坂本といいました。碓氷トンネル一号のあるところです。
 往復は大変でしたが、日曜学校はとても楽しかったです。さんびかを歌い、イエスさまのお話をきき、きれいなカードをいただきました。たくさんカード帳にはって喜びました。
 小さい時に神さまを知って、守られて、92才の今まで生きることができて、本当にしあわせに思います。
 皆様も日曜学校の生徒であることをほこりに思い、神さまに守られておしあわせにお過ごしください。本当にありがとうございました。
 わたしも皆様のために日曜学校のため祈らせていただきます。先生方にもよろしくお伝えください。さよなら。
                  尾形 清」
 尾形さんは92才のお年寄りです。
 1986(昭和62)年から、館林教会の集会においでになりましたが、礼拝、婦人会、篠原宅家庭集会など、ほとんど集会を休みませんでした。
 今は足がお悪いため、集会には出られません。花の日の訪問を喜んで、お手紙をくださったので、ここに掲載しました。

 大聖堂 1999年7月11日

 朝日新聞の「天声人語」はいつも面白く勉強にもなる。これは最近の一つだが、インターネットに解放してあるのだから、ここに掲載しても、新聞社から苦情もこないだろう。
 「こつこつと石を刻み、積み上げていって、建物が完成するまで何百年もかかる。ケルンの大聖堂もそうやってできた。
 ライン川に面したこの街で、工事が始まったのは1248年のこと。それまでの古い教会堂では、全欧州から集まる巡礼を迎えるのに手狭となった。競って大きな聖堂を建てるのが、中世ヨーロッパのならいでもあった。
 記録によると、上流の石切り場から毎日3、4隻の小舟が石材を運んでくる。現場で1日に加工した石の量は9.7立方メートル。初代の「宮大工」はゲルハルト。彼はドイツで一般的だったロマネスクにかえて、フランスで最新流行のゴシック様式を採用した。
 それから300余年、世代から世代へと仕事は受け継がれたが、まだ完成しない。そのうち、世はルネサンスの時代を迎えた。ゴシックは古くさいと、熱が薄れる。1823年まで、今度は工事中断の長い時期が続いた。
 もう19世紀。カトリック教徒の都市ケルンが、新教徒の国プロイセンの支配下に置かれた。国王は、宗旨の違う市民の歓心を買おうと、大聖堂の工事再開を提案する。あたかも、ドイツ・ロマン主義が高まってもいた。
 高さ157メートルの尖塔(せんとう)が南北にふたつ。最後に南塔の先端を飾る仕上げの石をはめ込んで完成したのが、1880年10月だった。鎌倉時代に着工したものを、西南戦争の直後に完成させたことになる。
 世代を超えて持続する根気、とでもいえようか。ヨーロッパの人びとにはそれがあるから、大聖堂をいくつも建てられたのか」。