館林キリスト教会

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小林前牧師 コラム集(2)

 新会堂 1999年4月18日

 新しく教会堂ができるとなると、いろいろなイメージがふくらんでくる。
 まず一般に思い描くのは、絵画や写真や映画や、また外国旅行で見た、中世期に何百年もかけて建てられたヨーロッパの荘厳巨大な教会だ。
 「いままで、実用いってんばりの、バラックのような教会で、しかも不便を我慢してきたのだから、今度こそは」と意気込むのはごく自然だ。
 むかしのヨーロッパの教会は、人の心を俗世から天に向けさせるように、雲に届くような高い尖塔を持っている。同じ目的で、教会内部も、ものすごく天井が高い。天井が100メートル以上も上にあるのだ。
 当時は暖房などは考えなかった。礼拝を守るのに、ぬくぬくと暖かいなどはもってのほかだった。
 「長い説教を聴くのだから、会衆席はなるべく楽な椅子に」なども、もってのほかだ。堅い窮屈な、ちょっとの力では動かない(つまり足の長い人が、ちょっと椅子をうしろにずらすなどはできなかった)そういう椅子にじっと我慢するのが、敬虔な礼拝出席者に求められたのだ。
 一般の信者は聖書が読めないから、初めから持ってこない。したがって教会は明るい必要は無かった。窓は高いところにあり、りっぱなステンドグラスだが、ほとんど光は通さない。ところどころにあるチャペル(祭壇)には、ろうそくが、ありがたそうに煙っている。寒くて暗く、窮屈なほうが、礼拝に適していると考えられていたのだ。
 もちろん昔も今も、教会堂はクリスチャンの敬虔の象徴だ。しかしいまはイメージの再検討も必要だと思う。
 ただでさえ「教会はきまじめなクリスチャンの行くところで、もともと窮屈だ。我々俗人には入りにくい」というイメージを持たれやすい。まず我々の教会は、間口の広い、敷居の低い、明るい、誰でも心安く入れる、暖かくて雰囲気のいい、しかも便利で機能的な教会であってほしいのだ。

 今日の交読文 1999年4月25日

 わたしが執筆を休んでいた間、市川、伊藤両先生が交代で「今日の講読文」を選び、また解説を書いてくださった。
 私は毎週これを読んで、本当に感心し、また感謝した。
 とても明快で分りやすく、これを読んでから交読すれば、聖書の内容は一目瞭然だ。
 これに比べると、いままでのわたしの「創世記交読」の解説は、つくづく小難しくて古臭いと思われた。もうこれからは若い人にまかせようと一応考えた。
 しかし両先生と相談の結果は、両先生担当の新約と、わたしの担当の旧約を、来週から交互に出すことなった。
 そのわけは、私の解説に興味を持つ人もまだ多いし、もう少し続ければ、「ショート旧約講解」が完成するからだ。

 管理能力 1999年5月2日

 わたしは自分の責任で、小さな大泉の教会堂と、やや大きな現在の館林教会堂を建てた。
その時いつも三つの原則を守った。
(1) 後悔がないように、後継者に恥じないように、教会の全力を尽くす。
(2) 他教会に援助を求めない。
(3) 理想に囚われず、与えられたものをもって満足する。
 というものだ。「すくなくも今よりはよくなる」などとよく言った。
 誰しも立派な教会堂がほしい。「外部から思いがけない寄付でもあって、タナボタ式に立派な教会ができないかなあ」などと私も夢見る。
 しかしそれでは、実は分不相応な、管理能力以上の教会になって、かえってもてあますことになるのだ。
 教会が自分の全力で造った教会堂だからこそ、自分たちに似つかわしく、また管理能力に合った教会になるのだ。
 大きくて立派過ぎる教会は、電燈料、燃料費、冷房費も莫大だ。その管理の手が届かなければ、寒い教会、暑い教会、うすぎたない教会には人は集まらないだろう。
 広すぎる土地では、生える草も、出るごみも処理できない。
 今の教会は、立派ではないがきれいになっている。うす汚くはない。しかし教会のお掃除の奉仕に当たる人は、毎月一回奉仕の壮年組と、ほかに,3、4人の女性だ。さいわいに市川先生がきれい好きだから、年中ひとりで掃除をしている。そんなことも考えなければならないのだ。
 教会堂ができて、万事が終わるのではない。教会会計も10年間は経費を節約して教会債の返済金を捻出し、教会員も会堂献金を継続して、教会債の返済にご協力を願うことになる。まだまだ真剣な祈りと努力が続くのだ。
 もちろん神のみ心と信じて始めたことだだから不安も心配もない。神が最後まで成しし遂げてくださると信じる。しかしそれゆええにこそ、この事業は、よほど祈り深く、慎慎重に運ばれなければならないのだ。

 つばめさん、いらっしゃい 1999年5月9日

 感心なもので、時候違えず、またツバメが教会の入り口に巣をかけた。ところが市川先生の話によると、巣が小さいのか、残念なことに卵は落ちて、だめになってしまったそうだ。
 しかし不思議にも、なお二羽のツバメが始終出入りしている。なんだかよく分からない。
 館林市では昨年、市民の協力で「ツバメの住民基本台帳」ができたそうだ。
 それによると、総数1021羽、巣の数171個、が確認されたそうだ。そして3年後にまた調査するという。
 むかし中国で共産党政府の指導が厳しかった頃、ハエをなくす運動が行われた。ハエだったか、ノミだったか、ネズミだったか覚えていない。
 これが成功して「中国はハエが一匹もいない国になった」と、世界中に宣言したことがある。
 しかしわたしなどは真に受けないで、「気味の悪い国だな」と思った。
 米俵に乗った大黒様は日本の福の神とされているが、その周りにはいつも2、3匹のネズミがいて、彼等は昔から大黒様のお使いだと言われた。
 洪水や火事のある家は、事前にそれを察知したネズミが逃げ出すから、ネズミのいない家になるという。ネズミがいるのも、平和で豊かな家の象徴なのかもしれない。
 人間のほか何も生きられない世界になれば、そこでは人間も生きられないだろう。
そう思えば、教会に毎年ツバメが来るのも良いことだ。