館林キリスト教会

伊藤牧師コラム集 66巻のラブレター(13)

 テサロニケ人への第一の手紙 2010年6月20日、27日

 
 キリスト教を「西洋の宗教」という人がかなりいると思う。しかしイエス様の故郷イスラエルは、西洋ではなく東洋である。エペソ、ガラテヤ、コロサイなども現在のトルコに属する地域にあり、同じ東洋である。しかし、テサロニケは、ピリピと共に現在のギリシャに属する地域にあり、西洋である。このヨーロッパに初めてキリスト教を伝えたのはパウロである。
 当時のマケドニヤの首都テサロニケは、アレキサンダー大王の妹、テサロニカの名にちなんでつけられたと言われ、繁栄した重要な都市であった。この大都市テサロニケに、エルサレムからはるばる伝道に出かけて行ったパウロの気迫に満ちた行動には驚かざるを得ないものがある。このテサロニケは、ギリシャ哲学、ギリシャ古来の宗教、そうした根強い思想文化の横たわっていた都市である。そのテサロニケに、キリストの十字架を伝えようとする大使徒パウロの信仰は、実に聖霊によらなければ確立できなかったに違いない。
 テサロニケの教会は、パウロがシラスとテモテと共に、第二次伝道旅行で、ピリピを去った後、紀元50年頃建てられたといわれている。パウロたちはテサロニケの町にあまり長く滞在しなかった。会堂での3週間にわたる安息日の説教とヤソンの家を根城に短期間留まっただけである。しかしこの短期間に、大きな騒動が起こった。彼に敵対する者たちが、「天下をかき回してきた」(使徒17章6節)と言って非難したからである。この大騒動のゆえに、兄弟たちはパウロを脱出させた。彼はベレヤ、アテネ、コリントへと進んで行った。パウロはここでこのテサロニケへの第一の手紙を書き、テモテに持たせ、その様子を知らせるように遣わしたのである。その結果、テモテはテサロニケの教会のよい知らせを持ち帰ってきた。しかしテサロニケ教会は、キリストの再臨にとても関心を持っているが、間違った考えもあることを述べた。そこでパウロは、コリントで、この手紙をテサロニケの人々に書き送ったのである。この手紙は、ことにキリストの再臨に焦点を当てており、各章の終わりで再臨にふれているのが特徴だ。(伊藤)
 

 テサロニケ人への第二の手紙 2010年11月7日、14日

 
 これは「祝福された希望」、あるいは主イエス・キリストの再臨についての、第二の手紙である。第一の手紙では、「キリストは必ず再臨される」と語り、第二の手紙では、主が来られる時まで、「静かに働いて自分で得たパンを食べるように」と勧めたのである。キリストの再臨は、新約聖書の中に、318回も言及されているという。このことから、再臨の主題がどんなに大切なものかを知ることができる。
 私たちは旧約聖書の預言に、主が最初に来られることについて言われているのを知ることが出来る。それと同時に、私たちは主が「力と大いなる栄光をもって」再臨されることについて新約聖書が語っていることを知ることが出来るのは幸いである。
 主イエス様は、最後の晩餐の時に、「そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。」(ヨハネ14:3)と語られた。主がこのように語られた意図は、主が行かれたと同じように再臨されることを弟子たちが理解するためであった。
 テサロニケ人への第二の手紙は、キリストが力ある御使いを伴って来られることについて述べている。キリストがご自身の教会のために来られることと、力ある御使いを伴って来られることとの二つの出来事は、実際には一つの出来事の二つの面である。これらの二つの面の間に、ユダヤ人はパレスチナを自分の領土として占有し、これに敵対するために異邦人たちが集まり、反キリストがこの世の支配者となり、彼はユダヤ人と契約を結んでそれを破るという出来事が起こるのである。これに続いて大患難時代が来る(マタイ24:21、22)。それから、キリストはご自身の聖 徒たちを伴って来られ、エルサレムを中心として、この地上にご自身の国を建てられる。キリストはまず来られて、ご自身の民をご自身のものとして受け入れられる。それから、主の敵に対してさばきをされる、大いなる、恐るべき、「主の現れる」日が来るのである。(伊藤)

 テモテへの第一の手紙 2011年1月9日、16日

 
 今までの手紙は、教会に宛てた手紙であった。しかしこの手紙は、、テモテという個人への手紙である。
 テモテという人物は、どんなクリスチャンだったのだろう。使徒行伝の著者ルカは16章で「そこにテモテという名の弟子がいた。信者のユダヤ婦人を母とし、ギリシヤ人を父としており、ルステラとイコニオムの兄弟たちの間で、評判のよい人物であった。」と書いている。それを裏書きするかのように、パウロもピリピ人への手紙2章で「テモテのような心で、親身になってあなたがたのことを心配している者は、ほかにひとりもない。人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。しかし、テモテの錬達ぶりは、あなたがたの知っているとおりである。すなわち、子が父に対するようにして、わたしと一緒に福音に仕えてきたのである。」と書いている。この「親身」という言葉を間違えて「おやみ」と読んだ人がいた。親のような身になって、人の面倒を見るテモテの姿が浮き上がって見えた。テモテはこのように絶大な信頼をパウロから得ていたのである。
 パウロはマケドニヤから、エペソに残されていたテモテにこの手紙を書いた。パウロがテモテを訪れることが出来なかったので、テモテが良い牧師になるのを助けるために、この手紙を書き送ったと言われている。
 その目的は「ある人々に、違った教を説くことをせず、 作り話やはてしのない系図などに気をとられることもないように」命じるためだった。また手紙で、パウロは、教会の礼拝について教え、どのようにして良い教会の指導者を選ぶべきかテモテに示して、彼らが、賢明で、自制があり、尊敬に値する人でなければならないといっている。そして自らも、人々の良い模範となるようにテモテに要求する。
 牧会していくことにおいては、その注意事項や配慮を示し、助言を与えている。そして誤ったことから離れ、正しいことを常に行うようにと、テモテに告げている。だから、テモテへの第一、第二の手紙とテトスの手紙は牧会書簡と昔から言われている。(伊藤)

 テモテへの第二の手紙 2011年2月6日、27日

 
 パウロはローマの獄中からこの手紙を書いた。この手紙の目的は、愛するテモテを、その奉仕の労苦に打ち勝たせるためであったと思われる。
 テモテへの第一の手紙において、パウロは正しい福音を伝えるように命じているが、テモテへの第二の手紙においては、正しい生活をするように命じている。テモテへの第一の手紙において、パウロは「神様から与えられた私たちへのメッセージの教理を守れ」と言っているが、テモテへの第二の手紙においては「神様から与えられた私たちの生活のあかしを守れ」と言っている。  パウロはテモテへの第一の手紙を書いた後、ギリシャか小アジアで、再び捕えられ、今度は犯罪者として、ローマに護送された。ローマの牢獄で「世を去る時」が来るのを待っている間に、彼は愛するテモテにこの最後の手紙を書き送ったのである。
 パウロの逮捕は、突然のことであり、予期していなかったので、彼は自分の大切な羊皮紙の書物と、さらに暖かい上着さえも持ってくることが出来なかった。この二度目の投獄は、最初の投獄の時とは非常に異なっている。最初の時は、彼の周囲には大勢の友人がおり、全ての人に接触することが出来たが、今度は孤独である。最初の時には、釈放される希望があったが、今度は死ぬことを予期しているからである。パウロはすでに邪悪なネロ皇帝の前に立たされたが、彼の裁判は延期されていた。彼は冬には再びネロの前に出頭することを予期して、テモテに対して、マルコを連れ、ただちに来るように求めて手紙を書いた。最後にパウロはテモテに会いたかったに違いない。しかしそれはかなわなかった。裁判はパウロが予期したよりも早く行われ、彼はまさかりで首を切られて処刑されたのである。このテモテへの第二の手紙は、愛するテモテに書いた遺言のような手紙であると昔から言われる。それほど大切なものである。(伊藤)