館林キリスト教会

伊藤牧師コラム集 66巻のラブレター(9)

 ゼパニヤ書 2009年5月3日、10日

 
 本書はナホム書、ハバクク書に比べると一番古いもののようである。「ヨシヤの世に」と1節にあり、ゼパニヤの系図があるが、その他の詳しいことはわからない。たぶん紀元前621年のヨシヤ王の宗教改革か、その少し前のものと想像されており、エレミヤの初期の頃に当たる。したがってイザヤとミカの時代に一番近いことになり、内容的にもよく似ている。ゼパニヤはヨシヤの治世のリバイバルに主要な役割を果たした。ヨシヤが16歳で王になった頃、ユダの状態は最悪だった。富んでいる人々は、貧しい人々を不正に扱って、莫大な財産を築き上げ、また民は、偶像礼拝をしていたからである。若いヨシヤは、民を神にたちかえらせようとし、偶像と祭壇を切り倒した。ゼパニヤがこの書の終わりに記している希望の言葉をヨシヤも他の改革者たちも聞いたにちがいない。
 ゼパニヤ書は悲しみで始まり、歌声で終ります。この最初の部分は、悲しみと暗い気持ちで満ちている。しかし、最後の部分には、旧約聖書の中でも最も快い愛の歌の一つが含まれている。「主の日」と言う言葉が、この預言の中には7回出てくる。聖書が「主の日」という場合、それは主が特別のことをなさる時のことを意味している。ゼパニヤの時代のユダヤ人に対しては、その言葉は、神がご自身の民を罰し、他国の捕虜とされる時のことを意味した。ゼパニヤはまた、神の民であるユダヤ人に対するさばきばかりではなく、彼らの敵に対する神のさばきについても語っている。ゼパニヤは、神の民に対する幾つかの素晴らしい約束を持って、この書物を閉じている。神の民は、彼ら自身の地に帰る。そして、神に祝福されるだけでなく、彼ら自身が、地のすべてのものに対する祝福となるのである。彼らの将来については、3章17節に「あなたの神、主はあなたのうちにいまし、勇士であって、勝利を与えられる。彼はあなたのために喜び楽しみ、その愛によってあなたを新にし、祭の日のようにあなたのために喜び呼ばわられる」と記されている。(伊藤)

 ハガイ書 2009年7月5日、8日

 
 旧約聖書の最後の3巻は、明らかに捕囚より帰還後のもので、ハガイとゼカリヤは第二神殿の建設をする人々を励まし、遂行させるために活躍した預言者です。すなわち、紀元前538年にゼルバベルの指揮下に、捕囚の民の最初のグループが帰還した時、彼らはバビロンによって破壊された神殿の再建を熱心に始めました。彼らが精神のより所として、神殿に基礎を置いていたからです。けれども、すぐに反対と冷淡な行動に遭遇し、工事を停止し、中断したままになっていたのです。ちょうどこの時に、ハガイが現れました。
 この時の人々は、各自の生活に忙しく、神殿どころではないという状態でした。神殿に集まって祭りを行い神様を呼んでいれば神様の加護があると信じていた人々と、今の生活の心に奪われ、せっかく礎石を置いた神殿を忘れた人々とは、だいぶ事情が違っていたのです。
 ハガイ書は2章しかありません。オバデヤ書につぐ小さいものですが、全体の分量はオバデヤ書とあまり変わりません。内容は、人々の怠慢を叱り神殿建築に励むようにという点に集中しています。
 神の言葉は、総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアに、「主の家はこのように荒れはてているのに……」(1:4)と告げられます。そして「自分のなすべきことをよく考えるがよい」(1:5、7)と繰り返されます。「あなたがたはおのおの自分の家の事だけに忙しくしている」(1:9)。生活が楽でないのは、そういう転倒した考え方、生き方によるものであると痛烈な批判を浴びせている。そこで人々は神様の前に恐れかしこんで、神殿建築の作業に取りかかったのです。
 ハガイのこの小さな書は、旧約聖書にちりばめられた宝石の一つであるといわれる。その理由は、本書の根本的関心事が、神殿の再建にではなく、何を優先させるかを示すことに、最適な表現をもって記されているからだろう。 (伊藤)

 ゼカリヤ書 2009年7月26日、8月2日

 
 ゼカリヤは、ハガイと同じく、70年間の捕囚の後に、バビロンから帰還したユダヤ人のうちの残りの者に遣わされた預言者です。
 ゼカリヤは、ハガイの預言の二ヵ月後に預言し始め、その預言の前半は、神殿建築中、彼の青年時代のものです。かつては神様のご計画通りに強力な国民だったユダヤ人は、今では、外国人の支配者の好意によってだけ、自分の約束の地に住まうことを許された、哀れで名もない残りの者になり果てていました。ハガイもゼカリヤも、民にそうでない、いつか、神様の選びの民は祝福を受けると励ましたのです。
 9章以下は、数十年後、彼の晩年のもので、メシヤ到来の預言になっています。工事に携わったのは年長者ばかりでしたが、彼らが若いゼカリヤに聞き従ったのは、彼が示された幻と御言葉を神の御霊によってそのまま伝えたからだと思います。
 ゼカリヤは、回復と栄光を告げる預言者でした。バビロンに生まれた彼は、預言者であると同時に祭司でした。名前が「主は覚えておられる」という意味のゼカリヤは、3年の間預言に携わった。哀れな現在よりはむしろ、栄光ある未来が、彼のメッセージの内容でした。
 ゼカリヤは、ハガイとちがって、民をとがめないで、力づけて助けを与える神様の臨在を鮮やかに描いて見せた。彼は特に、自分の弱さを意識していた総督ゼルバベルを励ましています。ゼカリヤの次の言葉はあまりに有名です。
 「ゼルバベルに、主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」と(ゼカリヤ4:6)。
 彼は、困難の山々は取り除かれると約束しました。神様が人々をご自身の力で満たされたペンテコステ(聖霊降臨)の時、この真理はみごとに成就したのです。(伊藤)

 マラキ書 2009年8月9日、16日

 
 いよいよ旧約の最後の書になりました。といっても成立年代が最後というわけではありません。しかし最後の章に「預言者エリヤをあなた方につかわす」とあることの実現が、新約のはじめのバプテスマのヨハネの先駆者と考えられたところから見ると、内容的には非常にふさわしい場所に置かれていると思います。マラキという人物についてはあまりわからず、その意味が「わが使者」ということであるため、個人名ではないとも考えられているようです。
 またこの書は、旧約聖書の歴史の多くを要約しているとも言われています。マルチン・ルターは、ヨハネによる福音書3章16節を「小さな福音書」と呼びましたが、ある神学者は、このマラキ書を「小さな旧約聖書」と呼んでもいいだろうと言っています。
マラキ書は旧約聖書と新約聖書の間に渡された橋のようなものです。
 バビロンの捕囚からユダヤ人たちがエルサレムに帰って以来この時までに、すでに百年あるいはそれ以上の年月が経過していました。
 マラキは、母国に住むイスラエル人に語りかける最後の預言者です。バビロンから帰還した時の最初の熱心はさめていました。信仰復興(リバイバル)の時期に続いて、民は宗教的に冷たくなり、道徳的にはたるんでいました。
 預言者マラキは、宗教改革者としてやってきましたが、彼は非難しながら、激励しています。彼は、士気を失って困惑している民を指導したのです。神様に対するこの民の信仰は、崩壊する危険があるように見えました。彼らは、すでに主に敵対していなかったとしても、懐疑的になる危険性は十分に潜んでいたのです。
 マラキとは「わが使者」という意味である。しかし彼が預言したのは、先駆者バプテスマのヨハネのように、あくまでも一つの声に過ぎませんでした。(伊藤)