館林キリスト教会

伊藤牧師コラム集 66巻のラブレター(1)

 神様からの愛の手紙 2005年9月18日

 
 今回から、聖書66巻の短いコメントを書きたいと思います。先日、中島篤志氏がお話してくださった時、聖書は「神様から私たちにくださったラブレターです。」と言っていました。わたしは「聖地を旅して」の次に何を書こうかと思っていましたので、「そうだ!聖書の素晴らしさを皆さんに紹介しよう」と願いました。そこで次回から、聖書の一番初めである「創世記」の解説を書いていきたいと思います。基本としては、一巻一回と予定しています。新約聖書ヨハネによる福音書3章16節のみことばは、三行の聖書とも呼ばれるくらい、聖書に何が書かれてあるかを要約している箇所として有名です。そこには「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」と書いてあります。つまり、神様はあなたを愛していると書いているのです。だから聖書は神様からのラブレターなのです。 (伊藤)

 創世記 2005年11月20日、27日

 
創世記の冒頭には「はじめに神は天と地とを創造された」と書いてある。このみことばは聖書全体の最初のみことばでもある。
 私たちは、木や石や粘土などで、いろいろなものを作って楽しむことがある。だれでも、初めに何を作るかなと目的を考える。
 神様は、はじめに「天と地」を造られた時、人間も目的を持って造られた。だから創世記を学んでいくと、人間が造られた神様の目的をよく知ることができるのだ。そればかりか、私たちの上にいつも働いていてくださる「天と地」を造られた神様の愛を深く感じることが出来るのだ。(伊藤)
小林牧師はよく「何でも切り出しが大事だ。借金をするのも、結婚を申し込むのも……」と言っていた。本も同じだ。最初のところで読者をどうひきつけるかによって値打ちが分かる。その意味で創世記は、聖書66巻の最初の文書として非常に興味深いものがある。創世記は全体で50章から成り立っているが、内容的に大きく二つに分けられる。1〜11章までは天地創造、人間、罪の始まりが記されている。12章〜50章は、アブラハム、イサク、ヤコブたちの族長物語とヨセフ物語が描かれている。イスラエル初代の父祖たちを中心人物とし、彼らと彼らをめぐる人々との様々なもつれや苦難、信仰、また、それらを通しての神様の奇しき導きや助けを、ドラマチックに生き生きと記しているから面白い。例えば、創世記3章15節の「彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」や、創世記45章7節の「神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。」の箇所などは、私たちを愛するが故に、神の御子のイエス様を十字架につけることや、私たちに対する罪の赦しということが手に取るようにわかるので感激する。(伊藤)

 出エジプト記 2006年1月8日

 
 創世記は、ヨセフ一族のエジプト滞在で終わっている。これは出エジプト記が創世記に続いている事の証拠だ。
 そしてこの出エジプト記こそがモーセ五書のクライマックスであり中心部分であることは言うまでもない。
 では出エジプト記には、どんなことが書いてあるのか。これも創世記と同様二つに分けられる。前半は、神様がモーセを用いてイスラエルの民を解放してくださること。後半は、その解放の恵みに基づいてイスラエルの民との間に契約を結び、その裏づけとして律法を与えられることが記されてある。
 そして、これは人類がイエス様によって悪魔の縄目から贖いだされる事の型である。
 ルカは、イエス様が高い山に登られた時に変貌され、そこでモーセとエリヤと語られた事を「イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していた」と記している(ルカ9:31)。この「最後」という言葉を「エクソドス」と現した。「出エジプト」と言う意味だ。これはイエス様の十字架の死が人類救出のための「第二の出エジプト」となるからである。このイエス様の十字架による贖いのみわざこそが、人類に対する神様の愛である。そのメッセージが出エジプト記の歴史を通して繰り返し語られている。      (伊藤)

 レビ記 2006年2月26日

 
 2006年1月号「みことばの光」レビ記の解説は「レビ記を読む人の多くは、そこに記されていることがらに戸惑いを覚えたり、また退屈に感じたりするかもしれない」と書いている。たしかにとっつきにくいところがあるかもしれないが、大切な礼拝規定が定められているので、じっくり味わって欲しい。
「レビ記」という名は、紀元前のギリシャ語訳旧約聖書からとられたものだ。レビ記の中には「レビ」と言う言葉は4回出てくるだけで、あとは「祭司」とか「アロンとその子ら」というふうに書いてある。「祭司のつとめに関係したことが多く書いてある書物」と言う気持ちで「レビ記」と名付けられたようだ。
出エジプト記は、シナイ山のふもとに「会見の幕屋」が完成した話で終わっている(出エジプト記40:33)。レビ記は、この会見の幕屋から神様がモーセを呼び出すところから始まり、そこでのさまざまな礼拝規定が記されている。他には、イスラエルの生活の指針、犠牲のことから衣食住のきよめのことまで、また祝祭日のことから労働や土地のことまで示している。
レビ記には、こういう種類の規則ばかりではなく、それと一体となって、「あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。」(レビ記19:18)というイエス様も引用された隣人愛の教えがある。(伊藤)

 民数記 2006年3月19日

 
 民数記という書名は、ギリシャ語訳旧約聖書の1章と26章に記されている「人口調査」からとられている。ヘブル語原典の名前は1章1節から「荒野にて」となっている。
 イスラエルの人々が、カナンの地に辿り着くまでの四十年余り、どこでどのくらいの時を過ごしたのかを見ていくと、「四十年」の大部分は民数記に記されている出来事だという事がわかる。それに対して出エジプト記の出来事は1年足らず、レビ記は1ヶ月、そして申命記は34章を除くとたった1日(申命記1:3)のことである。
 民数記は、イスラエルの人々が、シナイ山から約束の地カナンまでわずか数百キロメートルの距離なのに、どうして39年近くもついやす事になったのか、そのわけを物語っている書物である。
 神様は、荒野を旅する中、繰り返し神様に反抗し、呟くイスラエルの人々を懲らしめ、訓練の為に適切な試練を与える。それは決して刑罰ではない。神様は常に恵みをもって、民を守り、励まし、カナンの地への前進を促しているからだ。この「恵み」のことを旧約聖書で「ヘセッド」という。ヘブル語の「ヘセッド」とは、神の賜物、神の愛と言い換えてもよいから、民数記も、イスラエルの民を愛する神の愛の物語なのである。(伊藤)

 申命記 2006年4月23日

 
 申命記は、約束の地カナンへ入る直前に、モアブの草原においてなされた、モーセの告別説教である。
この書名は「申命記」という書名で、「二度目の律法授与」という意味である。日本語の聖書は、漢訳聖書の呼び方を使っている。その意味は「申(かさ)ねての命令」と言われている。
モーセは、民がヨルダン川を渡り、約束の地に入っていくにあたって、もう一度念を押すように、かつてのシナイ山で与えられた十戒を重ねて民に語ったということになる。またヨシュアをイスラエルの指導者として任命している。勿論これらは、律法の形をとっているが、決して固い律法の書ということではない。むしろ、先祖の神がいかにあわれみ深く慈しみに富んだお方であるかを、民自身の荒野の経験に照らして語った説教であるという性格が前面に出ている。
イエス様が最大の戒めであるといわれた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。」という言葉は、申命記からの引用である。(伊藤)