館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 1999年7月

ハンナの祈り  サムエル記上1:1、2 市川副牧師 

1999年7月4日
 イスラエルの民はモーセに率いられてエジプトを脱出し、モーセの後継者、ヨシュアをリーダーに約束の地カナンに定着しました。 この後は、必要に応じて、臨時的地域的指導者である士師が立てられ、人々を導き、イスラエルを外敵から守りました。これが士師記時代です。 しかしこの間、三百年、イスラエルは次第に真の神様から離れ、神様の言葉を聞かず、自分勝手に、カナンの神々を礼拝し、不道徳に陥りました。士師記の最終章に「おのおの自分の目に正しいと見るところを行った」とあるように、イスラエルは霊的にも、政治的にも破綻した状態に至っていました。 その頃、エルサレムの北西、ラマタイム・ゾピムに、レビの家系でエルカナの家族がいました。 毎年礼拝のため家族揃ってシロの「主の宮」に出かけました。妻ハンナは積もる憂いに深い祈りを捧げました。 この家族の祈りこそが、暗黒のイスラエルに、神の回復の新しいみ業が進展する、いとぐちとなりました。(市川)

「お祈りのしかた」 ルカによる福音書11:1〜4 小林 牧師 

1999年7月11日
 昔ギリシアの有名な旅行家は「私は世界中を旅行した。世界には、我々のように皮膚の色の白い人間だけでなく、黒い人も黄色い人もいる。住まいもさまざまで、動物のように穴に住む人もいれば、鳥のように高い木の枝に家を造り、また水鳥のように、水中に家を浮かべて住む人もいる。しかしお祈りをしない人は見たことがない」と言いました。 弱く苦労の多い人間は、神様に祈らないではいられないのでしょう。 さてわたしたちクリスチャンの祈りは、まことの神様との会話です。また会話はすなわち「交わり」です。お祈りが始まれば、神様との交わり、つまり信仰生活がはじまります。 親子やご夫婦でも、会話が絶えれば交わりも失われます。会話、交わりは大切なものです。 今朝はお祈りについてお話しましょう。それも祈りの理屈でなく、どのように祈りを始めるか。どんなことを祈ったら良いのか。祈りの作法、やりかたなどもあるのか。 そういう「お祈りの手がかり」から、お話をします。

「人間の創造」 創世記1:26〜27 伊藤副牧師 

1999年7月18日
 テーバイの西の山に住んだスフィンクスは、道行く人に難問を吹っかけ、解けない者を取って食べてしまいました。その問いというのは「朝は四本足、昼は二本、夕には三本足になるものは何か」というものでした。長い間この謎は解けませんでした。 ある日、そこを通りかかったオイデプスが、「それは人間だ」とズバリこの謎を解いたのです。 このギリシャ神話は「人間とは何か」という問題が、実はわれわれにとって最大の難問であることを示しているのです。哲学者ヘーゲルは「人間は意志的な存在である」と言い、哲学者カントやデカルトは「人間は理性的な存在である」と言っています。 聖書は何と言っているかと言えば、創世記一章二七節で、「神は自分のかたちに人を創造された」と教えています。つまり、私たち一人一人は神の作品であり、それゆえに、価値ある存在であるのだと言っているのです。 今朝は、「人間の創造」というテーマを一緒に学びたいと思います。(伊藤)

「クリスチャンの献身」  ローマ人への手紙12:1、2 小林 牧師 

1999年7月25日
 ローマ人への手紙は大切な聖書ですが、この手紙はパウロが机に向かって書いたのでなく、数名のローマ教会指導者列席の部屋で口述したようです。筆記者はテルトロという人でした。 パウロはある時は歩き回りつつ、ある時は椅子に掛けて、祈り瞑想しつつ口述したでしょう。想像してもすばらしい場面です。 ある人は、二、三日かかったと言い、ある人は一日で作業を終わったろうと言います。 いずれにしろ、この手紙に三箇所の切れ目があるのは事実です。食事のためか、お茶休みのためか分かりませんが。 そして、十一章と十二章の間も、はっきりした切れ目のひとつです。 十一章まで救いの教えを語ってきたパウロは、ここからクリスチャンの実生活の教えに進みます。そしてクリスチャン生活の根本は「神とキリストへの献身」にあると教えています。 洗礼式が行われる今朝の礼拝で、もう一度、クリスチャン生活の根本であり出発点である「献身」を学びましょう。