館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 1999年6月

取税人マタイ  マタイによる福音書9:9〜13 小林 牧師 

1999年6月6日
 マタイはキリストの弟子、また聖書の著者の中で一番有名でしょう。なぜなら新約聖書を開く人は誰でもまず「マタイによる福音書」に出会うからです。 新約聖書が今の形に編集されたのは三世紀のことですが、その最初に福音書、つまりキリストの四つの伝記を置いたのは自然であるとして、なぜその福音書の最初に、マタイが置かれたのでしょう。難しい議論もあるが、当時の一般の教会で一番中心的、基礎的なキリスト伝として、最も多く読まれていたからだ。と言うのは単純な答えのひとつです。 つまり教会が長い間かかってそれを決めた。だから実際は、聖書の編集は、教会全体によって行われたのだと言えるのです。 マタイはその福音書の中に、自分の救いの証を書いています。 彼はユダヤ人に最も忌み嫌われる取税人でした。そのかわりたくさんの財産を作ることができました。またそのかわり、ローマ人の、不敬虔、不潔、粗暴な習慣や娯楽にも付き合っていました。その彼がどうして救われたか。(小林)

愚か者の賢い妻 サムエル記上25:1〜3 久保田邦光

1999年6月13日
 今朝お話してくださる久保田邦光兄は、この教会の先輩クリスチャンだ。 なにしろ彼がはじめて教会に来たのが、一九六四(昭和三九)年、彼が一九才、牧師の私が四七才の時だった。 彼は運転が仕事で東京に通っていたが、教会に来始めるとすぐ、扇風機だの、牧師が講壇で水を飲む、きれいなガラスの水入れなどを買って来てくれた。最初から自然に「教会や牧師に何かしたい」という気持ちが強かったのだ。 いつのまにか三五年間の交友となったが、彼も彼の家族も、牧師に心配をかけたことはなく、いつも一生懸命に尽くしてくれる。 この教会は、牧師に混じって、上手下手はかまわず、信徒が交替で説教をすることになっている。牧師と違って、社会の現場で生活する信徒のお話も、貴重だと考えるからだ。 久保田さんは、早いうちに説教の原稿をフロッピーに入れて見せに来る。それをわたしがパソコンで一応添削するのだ。 期待と祈りをもって聞いて下さい。

信仰の成長 ヨハネによる福音書5:24 小林 牧師 

1999年6月20日
 「聞く」と言うことはすばらしい。わたしたちも小学校から先生たちの教えを聞いたし、また本を読んで勉強してきた。これなしに今日の我々はない。 お医者さんも治療してもらうだけではない。いろいろ教えてくれる。それによって、病気のときどんなに助けられるか知れない。 まして「キリストの言葉」を聞くのはすばらしい。「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」。とローマ人への手紙一〇章にあるとおり、それは信仰の基礎であり、出発であるのだ。 わたしは一生キリストの言葉を聞き、聖書を勉強してきた。これこそ神の憐れみをこうむった者、選ばれたものの特権だった。 同時にキリストは、お話の初めや終わりによく「耳のある者は聞くがよい」と言われた。それはいわゆる「聞く耳もたぬ人」が多いからだろう。 われわれはサムエルのように「しもべは聞きます。主よ、お話しください」と、主の言葉に耳を傾けたいものだ。

結婚披露宴の招待  マタイ福音書22:1〜7 伊藤副牧師 

1999年6月27日
 結婚披露宴に連なるということは、人間が、この世で経験することのなかで最も喜ばしいものの一つではないでしょうか。イエス・キリストは、神様の王国で、神の民があずかる祝福を、この喜ばしい結婚披露宴にたとえて、「天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。王はその僕たちをつかわして、この婚宴に招かれていた人たちを呼ばせた」と、言われました。 しかし、招かれた人々はそれぞれ理由をつけて断ったというのです。招待客が断ったとはちょっと考えられない話です。結婚披露宴の招待というものは、老人でも青年でも、喜んで受けるものだからです。その招待を断るほど失礼な人はいないと思います。 ところが、神様が魂の永遠の救いを差し出してくださる喜ばしい祝宴にお招きになると、人々は何とかしてその招きを断ろうとするのです。 今朝は、「結婚披露宴の招待」のたとえを通し、私たちを天国に招く神様の愛とその備えを学びましょう。(伊藤)