館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 2005年5月

「礼拝優先」ルカによる福音書10:38〜42 伊藤 牧師 

2005年5月1日
 今日は、礼拝に続いて臨時教会総会が開かれ、二〇〇四年度の決算審議が行われます。
 さて、イエス様が十字架にかかられる数ヶ月前、エルサレムに行く途中、マルタとマリヤの家を訪ねました。そしていつものように御言の解き明かしをしてくださったのです。
 するとマリヤは、仕事をやめて、すぐイエス様の足もとにすわって、御言に聞き入っていたのです。しかし、マルタはイエス様のために接待の用意を続けていたのです。
 ここで問題が生じました。少したつとマルタは接待の準備でパニックになってしまったのです。そこでマルタは、イエス様のところにきて、「私の手伝いをするように妹におっしゃってください」と苦情を言ったのです。 
 しかし、イエス様は「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」と言われたのです。
 今朝は、マリヤのように御言に聞き入る姿から「礼拝優先」という信仰の姿勢を学びたいと思います。  (伊藤)

「救いの恵み」 ローマ人への手紙3:23、24 伊藤 牧師 

2005年5月8日
  ローマ人への手紙三章二十三節には「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」と書いてあります。
この言葉は、ある人にはキリスト教に対する拒絶反応を与えるようです。「すべての人が罪人だなんて」あまりにも独断的だと思うからです。確かに、この言葉が法律的な意味で、「すべての人が罪人」だと言うのなら、そう思うのが当然かもしれません。
しかし、ここに記されている「罪」とは、法律的な罪のことではなく、心に関する「罪」のことです。神様が私たちをご覧になると、人は神のみこころにかなう歩みをしていないのです。
マルコによる福音書七章には、人の心の中から「貪欲、好色、妬み、そしり、高慢、愚痴など」の悪い思いが出てくると書いてあります。ですからすべての人に「罪」がある、と言っているのです。
神様は、この「罪」から私たちを救うために、イエス様を十字架上で身代わりに死なせ、天国に至る救いの恵みの道を備えてくださったのです。(伊藤)

「神のみこころに生きる」 ダニエル書1:1〜7 伊藤 牧師 

2005年5月15日
今から約二千六百年前、B・C六百五年頃、北イスラエルはすでにアッシリヤによって滅ぼされ、南ユダ王国も滅亡寸前のエホヤキム王時代の事です。
 バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムに攻めて来て、神の宮の器具の一部を、自分の国に持ち帰り、偶像の宮に納めました。この時、大勢のイスラエル人が捕囚としてバビロンに連れて行かれたのです。ダニエル書の舞台は、このバビロンです。
 ダニエルたちは、自分の意に反して捕らわれの身となり、祖国を後に異国の地に連れて来られたのです。そこにあるのは大人でも耐え難い孤独と屈辱の世界でした。一説によれば十五歳位であったと言われる少年たちにとって、そのような境遇はどんなにか辛く、悲しく、困難なことであったかと思います。
 ダニエルと三人の友人、ハナニヤ、ミシャエル、アザリヤは、十代半ばにして、まさにそのような波乱の人生へと導かれる事になったのです。
 今回から、月一回位の割合でダニエル書を学んでいきたいと思います。(伊藤)

「幸福を求めて」 ヨハネによる福音書4:13、14 市川副牧師 

2005年5月22日
 わたしたちは、 生きがいのある、幸福な生涯を願っています。ですから幸福を求めて努力もするでしょう。願いがかなって幸福を手にしたなら、喜びもひとしおでしょう。
 しかし不思議なことに、求めていた幸福を手にすると、喜びもつかの間、もうそれはあたりまえに思えて、ほかに幸福はないかと求めつづける、という場合も多いのではないでしょうか。
 イエス様は、旅の疲れのためにサマリヤの井戸のそばで休んでいらっしゃいました。ちょうどそこへ人目を避けるようにしてひとりの婦人が水を汲みに来ました。イエス様は「水を飲ませてください」とおっしゃいました。驚いているこの人にさらに「…『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」とおっしゃいました。あちらこちら求めても心がかわいて満たされないこの人に、イエス様は「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがない…」と言われたのです。  (市川)

「わたしはいったい何者」 出エジプト記3:1〜5 平山 透 

2005年5月29日
  今朝は、教会役員平山透兄が礼拝説教のご奉仕にあたってくださいます。
 以下は平山透兄の導入の文章です。
 今朝は、出エジプト記の中からお話したいと思います。
 この書は、イスラエルの民のエジプト脱出記録であります。何世代にもわたって奴隷状態であった一つの民族が突然に、そして永遠に、今まで住んでいた国を離れて、未知の国と新しい共同体の生活へと移っていくのです。
 また律法の授与と、モーセ契約の宣言と、驚くほどの象徴的な建物である幕屋の建設が描かれております。
 さらにモーセが成長し、力強いわざを行うために出て行くこと、シナイ半島において、イスラエルの民が単なる血縁的な部族から、神に選ばれ組織され、整えられた国家へと移行する様子を見ることが出来るのです。
 この出エジプト記の三章には、モーセが燃える柴の中から神様に声をかけられた時、「わたしは、いったい何者でしょう」と言ったと書いてあります。その意味をご一緒に学びましょう。(平山)