館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 2002年12月

「エリヤの再出発」 列王記上19:9〜13 伊藤 牧師 

2002年12月1日
  9節に「その所で」とあるのは、神の山ホレブで、神様がモーセに現れたシナイ山のことです。
 エリヤは、きっとモーセのことを思い出しながら、その山を目指して四十日四十夜旅を続けていたのです。
 モーセはある時、疲れて「それはわたしには重過ぎます。〈中略〉むしろ、ひと思いに殺し、このうえ苦しみに会わせないでください」(民数十一章十四、十五節)と死を志願したことがあります。
 また、モーセが自分の立場に自信を失い、神様の臨在のしるしを求めた時、神様は「あなたは岩の上に立て」と命じられました。そして神様は、モーセを岩の裂け目に隠し、その上を通り過ぎられたのこともありました。
 神の山ホレブについたエリヤは、ほら穴で一夜を過ごしながら、自分とモーセの体験を重ねていたのだと思います。
その時、エリヤは「あなたはここで何をしているのか」という神様の声を聞いたのです。
 今朝は、こうした神様の呼びかけを通し、エリヤの再出発を学びたい。(伊藤)

「悩みあれども」 ヨハネによる福音書16:33 伊藤 牧師 

2002年12月8日
  聖書の魅力の一つは、事実をきちんと記していることだと思います。
 その一つが、今日のテキストである「あなたがたは、この世ではなやみがある」というみことばです。
 世の宗教は、一般的にご利益を宣伝文句といたします。
 しかし、キリスト教では、イエス様を信じることによって、急に苦しみから解放され、いい事ずくめで、やがて悲しみのない天国に移されるというのではないとはっきり告げているのです。
 イエス様が、弟子たちをこの地上に残していく時、遺言として語られたのは、弟子たちがなお一層多くの悩みの中にあって、苦しみと戦わなければならないということでした。
 しかし、弟子たちだけを苦しみの中にほうりだすのではなく、「わたしはすでに世に勝っている」と言われたイエス様ご自身が、彼らと一緒に歩み、彼らを導き、それに耐えられるように力を与えてくださったのです。
 だから私たちも、悩みあれども、勇気をもって歩んでいきましょう。(伊藤)

「ヨセフの信仰」 マタイによる福音書1:18〜21 市川副牧師 

2002年12月15日
  マタイによる福音書には系図に続いてキリストご降誕の経緯が記されています。
 御使いがマリヤに受胎告知した後、マリヤは婚約者ヨセフにこの出来事を告げたことでしょう。ヨセフは、言葉に表せない苦悩に陥ったと思われます。
 当時、結婚の約束は、互いの両親によって、早くに取り決められるのが普通だったようです。ユダヤの社会では、聖書の教えに基づいて、婚約期間に裏切り行為がなされたなら、石打の刑によって死刑に処せられることが定まっていました。
 マリヤは窮地に立たされました。
聖書には、ヨセフは「正しい人であったので…ひそかに離縁しようと決心した」とあります。このことが公にならないように、マリヤのために自分は身を引こうと考えました。
 ある夜、ヨセフは夢のうちに御使いの知らせを受けました。彼は、神様のみわざである、約束された救い主のご降誕を受け止め、神様の導きに従ったのでした。 (市川)

「クリスマスの贈り物」 マタイによる福音書2:9〜11 伊藤 牧師 

2002年12月22日
  現在、クリスマスは世界中の人々にお祝いされています。ラジオでもテレビでも、クリスマスに関する様々なニュースがたくさん報道されています。
 しかし、今から二千年前の初めてのクリスマスをお祝いしたのは、ごく少数の人たちでした。
聖書にはそのことに関して、イエス様の両親のヨセフとマリヤ及び、羊飼いたちと東方から来た博士たちのことが書かれています。
 クリスマスはプレゼントの季節ともいえます。聖書には、東方からはるばるやってきた博士たちが、「黄金、乳香、没薬」などの贈り物を幼な子のイエス様にささげた、と記しています。
 なぜ彼らは、この三つの贈り物を幼な子イエス様にささげたのでしょうか。
 それは、この贈り物に彼らの信仰が現されているからです。
 そこで私たちは、今朝のクリスマス礼拝で、どのようなことを心に留めながら、何をイエス様に献ぐべきか、ということについてご一緒に学びたいと思います。(伊藤)

「完成してくださる方」 ピリピ人への手紙1:3〜6 市川副牧師 

2002年12月29日
  パウロは第二回伝道旅行で、エーゲ海の西に位置する、ピリピに伝道しました。これは、最初のヨーロッパ大陸伝道でした。これが手始めとなって、福音は西回りで世界に伝えられ、やがて私たちの国、日本にも伝えられました。
 ローマ人への手紙一〇章一四節以降に「…信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。…」とあるとおり、パウロが聖霊の導きのもとに、海を渡ってピリピに伝道したので、この地方の人々もまた、福音を聞き、主を信じる生活に入ることができました。
 今、パウロは福音を伝えたために獄に捕われていました。救われて新しい生活に歩んでいる人々のことを思うと、獄にじっとしていられないもどかしさを覚えていたことでしょう。しかし、彼らのうちに「良いわざを始められたかたが、…完成して下さるにちがいないと、確信している」と、信じて祈りつつ主を仰ぎ望んでいました。(市川)