館林キリスト教会

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市川副牧師 コラム集(28)

 ダビデの子 2013年7月28日

 ルカによる福音書20章41節以降でイエス様は質問しておられます。 「どうして人々はキリストをダビデの子だと言うのか。ダビデ自身が詩篇の中で言っている、『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足台とする時までは、わたしの右に座していなさい』。このように、ダビデはキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」。
 イエス様はダビデの子孫として、お生まれになりました。人々はイエス様を「ダビデの子」と呼びました。しかし、イエス様がお生まれになるはるか昔に、ダビデ自身がキリストを「わが主」と呼んでいるのです。詩篇110篇です。詩篇110篇は詩篇2篇とともに、キリストを預言した詩篇で新約聖書に引用されています。ダビデは聖霊の導きのうちに、来たるべき方はダビデ以上の存在の方である、と言ったのです。
 当時、多くの人々は、地上にダビデの王国を再建することを願っていました。しかし、イエス様は十字架で死なれ、三日目に復活し、昇天なさいました。時至って再びおいでになり、神の国を実現なさるのです。

 宮でのこと 2013年12月29日

 ルカによる福音書20章1節。「ある日、イエスが宮で人々に教え、福音を宣べておられると、…」。20章にはエルサレムの神殿でのイエス様のお話がいくつも記されています。
 20章45節から律法学者について言われています。
 律法はモーセや祭司、時には預言者などを通して与えられた神の教えです。「おきて」「命令」「さばき」「あかし」などとも言われています。申命記1章5節にモーセが「…律法の説明に当った。」とあります。神殿崩壊、ユダ王国の滅亡、捕囚の後、シナゴーグ(会堂)において律法が教えられ人々の信仰の基盤となりました。律法学者は、律法を筆写し、解釈し、シナゴーグで教えました。それぞれの家庭でも律法に基づいて子どもたちを教育しました。このように律法学者はたいせつな働きを担ってきました。
 イエス様は当時のパリサイ人や律法学者の、律法を守ることによって神に受け入れられるという律法主義をただされ、律法が意味している真の意味に生きることを明らかにされました。マタイによる福音書22章37〜40節「イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。と。

 ふたつの姿 2014年3月30日

 ルカによる福音書20章45節から律法学者について言われています。
 イエス様は人々がみな聞いている時に、弟子たちに向かって話されました。彼らが長い衣を着て歩くことを好み、人が集まる場所で丁寧にあいさつされることや、会堂や、宴会の上座を喜ぶ様子。当時、律法学者たちなどを支えることがやもめの最高の敬虔な行為とされていたそうですが、彼らは、やもめの家を食い倒し、見えのために、見せかけの長い祈りをする、そういう彼らに注意しなさい、と。これらは、人からの栄誉を求める姿でした。
 21章1節以降にはこうあります。イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。主により頼んで感謝とともにささげるやもめの姿です。

 エルサレム神殿 2014年6月29日

 ルカによる福音書21章5節以降に「宮」について記されています。「宮」はエルサレム神殿のことです。この神殿は三度目に建てられたもので第三神殿とも呼ばれますし、ヘロデ大王による建築のためヘロデの神殿とも呼ばれます。外観は当時のギリシャ、ローマの建築様式が取り入れられていたとも言われています。人々は「見事な石と奉納物とで宮が飾られていることを話していた。」とあります。弟子たちも感嘆の声をあげています。(マルコによる福音書13章1節)。
 しかし、イエス様はこの神殿が崩れ去る時が来るとおっしゃいました。弟子たちは「いつそんなことが起こるのでしょうか。…どんな前兆がありますか。」(ルカによる福音書21章7節)と尋ねました。イエス様は「…終わりはすぐにはこない。」(ルカによる福音書21章9節)とお答えになりました。弟子たちは神殿の崩壊の時がすなわち世の終わりの時だと考えていたようです。

 終わりの日の予型 2014年7月20日

 ルカによる福音書21章5節以降で、イエス様はエルサレム神殿が崩壊する時が来ることを弟子たちに話されました。神殿の崩壊の時がすなわち世の終わりの時だと弟子たちは考えていたようですが「…終わりはすぐにこない。」とイエス様は言われました。しかし、神殿の崩壊は終わりの日のさばきの予型ということができます。24節までにエルサレムに起こることについて、25節以降には終わりの時についてイエス様は教えてくださいました。「また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、人々は世界に起ろうとする事を思い、恐怖と不安で気絶するであろう。もろもろの天体が揺り動かされるからである。」(25節、26節)とあります。自然界の大異変です。エルサレム神殿崩壊のような一つの国の出来事でなく、世界規模の出来事です。人々が「恐怖と不安で気絶する」というほどのとき、「そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(27節)。主が再臨なさるのです。世界中の人々に明らかにわかるようにおいでになります。