館林キリスト教会

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市川副牧師 コラム集(27)

 わたしの愛子をつかわそう 2012年9月23日

 祭司長や律法学者たち、長老たちの「何の権威によってこれらの事をするのですか。」という問いに続いて、イエス様は人々に譬を話されました。ルカによる福音書20章9節〜18節です。
 主人がぶどう園を農夫に貸しました。収穫の季節になり、分け前を出させようと僕を送りました。すると農夫たちは僕を袋だたきにし、から手で帰しました。このようなことが三回も続いたのです。主人は、今度は最愛の息子を遣わしました。すると農夫たちは、ぶどう園の外に追い出して殺してしまいました。
 神の民イスラエル、その指導者たちは、神様が遣わされた預言者たちをないがしろにし、最後には神のひとり子イエス様を十字架につけてしまいました。
 イエス様はここで、ご自身の権威が神のものであることを語られたのです。イエス様は神のひとり子としての権威をお持ちの方で、神の御心のままにすべてをなさっておられました。しかし、祭司長を初めとする人々は、これを受け入れることができませんでした。
 この日が火曜日だと言われています。イエス様はその週の金曜日に十字架で死なれたのです。ご自身の十字架での死を予告された譬でもありました。

 ぶどう園のたとえと隅のかしら石 2012年12月30日

 ぶどう園の主人が愛する息子を送ると農夫たちは「彼をぶどう園の外に追い出して殺した。」とイエス様はお話なさり、続いて「そのさい、ぶどう園の主人は、彼らをどうするだろうか。彼は出てきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう」。とお話になりました。すると人々は『「そんなことがあってはなりません」と言った。』のです。イエス様は彼らを見つめて言われました。
 「それでは、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった』と書いてあるのは、どういうことか。すべてその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」ルカ福音書20章17、18節
 詩篇118篇22、23節にも「家造りらの捨てた石は隅のかしら石となった。これは主のなされた事でわれらの目には驚くべき事である。」とあります。
 無価値だと思って捨てた石が建物の土台となる基礎の石、極めて重要な存在だった、というのです。
 当時の人々は、神様がお遣わしになった御子イエス・キリストを捨て去りました。しかし、実は最も重要なお方でした。隅のかしら石を失った建物が成り立たないように、土台となる基礎の石、イエス・キリストなしにわたしたちの歩みは成り立たないということです。

 カイザルのものはカイザルに、神のものは神に 2013年5月26日

 ルカによる福音書20章。ぶどう園のたとえを、イエス様が自分たちに当てて語られたのだと、律法学者たちや祭司長たちは悟りました。彼らはイエス様を陥れる機会をうかがっていました。まじめな質問をするふりをした人たちを送ってイエス様の言葉じりを捕えようとしました。
 彼らの質問はこうでした。「カイザルに貢を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」当時、ユダヤはローマ帝国の支配のもとにありました。ローマ皇帝カイザルに納めるように言えば、同胞ユダヤ人の反発が予想されます。納めなくてもよいと言えばローマ帝国への反逆分子ということになります。この質問にどう答えるか彼らはイエス様を見つめました。
 イエス様はデナリ銀貨を用いてお答えになりました。刻印された肖像、記号はカイザルのものでした。カイザルの支配のもとにある者はカイザルに返すべきだということと、合わせて指摘なさったのは、神に生かされ神のご支配とご配慮の摂理のうちに生かされている人間はすべて、神に感謝と礼拝をささげ信仰と従順をもって歩むべきだと。

 生きている者の神 2013年7月21日

 サドカイ人は、おもに神殿で仕える祭司たちでした。彼らはモーセ五書だけを重んじ、復活や、死後の生命などについては受け入れなかったようです。彼らは「復活ということはない」と普段から主張していました。ルカによる福音書20章27節以降では、サドカイ人たちがイエス様に質問しています。モーセの教えを取り上げて、家督を継ぐことに関しての婚姻について質問しました。
 すべての人が亡くなったあと、復活ということがあるなら、結局、この人はだれの妻になるのか。復活が実際にあるとしたら、そのとき彼らの関係はどういう事になるのか、こういうことを考えれば、復活など真に受けることはできない、という主張なのです。
 イエス様は、復活ののちの世界は、新しい秩序の中に移され、もう死ぬことはなく、それゆえにめとることもとつぐこともなく、天使に等しいものであると言われました。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである。」(20 章38 節)。復活も死後の生命もあるのだと。