館林キリスト教会

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市川副牧師 コラム集(25)

 ミナ 2011年7月31日

 「あなたはわたしの魂を死から救い、わたしの足を守って倒れることなく、いのちの光のうちで神の前にわたしを歩ませられたからです。」詩篇56篇13節
 今日は洗礼式が執り行われます。洗礼を受けるに至るまで、主はみなさんを導いてくださいました。これからも共にいてくださいます。
 主が救ってくださった恵み、今日まで主の恵みに生かされた恵みを、わたしたちも思い起こして改めて感謝し、この詩篇のみ言葉のとおり憐れみを与えてくださる主を見上げつつ歩みましょう。

 ベタニヤ 2010年8月28日

 イエス様は十字架にかかられる前の日曜日オリーブ山のふもとベテパゲとベタニヤを通ってエルサレムに向かわれました。これらの村はエルサレムの東に位置しました。東方のエリコからベタニヤを通ってエルサレムに向かう道沿いにベテパゲの村がありました。イエス様は弟子たちを遣わしてろばを借りさせエルサレム入城の準備をなさいました。ベタニヤはオリーブ山の東の麓、エルサレムから3キロほど南東に位置しました。ここにはラザロとその姉妹マルタとマリヤが住んでいました。イエス様と弟子たちはエルサレムにやって来たときにはこの家を訪れました。マルタたちがもてなした様子がルカによる福音書10章に、ラザロの死と葬り、そして、イエス様がラザロを死から生き返らせてくださった出来事がヨハネによる福音書11章に記されています。「新聖書辞典」(いのちのことば社)より

 暗やみに大いなる光が 2011年12月25日

 預言者イザヤはイエス・キリスト様がお生まれになるおよそ700年も昔の人です。南王国ユダで神様のみ言葉を伝え民や王を指導しました。有名なイザヤ書7章および9章はキリストご降誕に関わる預言のひとつです。聖書のお言葉どおり、およそ700年後ユダヤのベツレヘムにおいてキリストがお生まれになりました。イザヤ書9章1、2節
「…異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。」
このみ言葉はマタイによる福音書4章で引用されています。  この地方は当時アッシリヤに占領され住民は捕囚となって連れ去られ、代わりに異邦人が移住させられ、宗教的混乱もありました。苦しみと暗黒の地でした。700年後も、産業流通によって栄えていましたが、南のエルサレムを中心とする正統派ユダヤ人社会から見れば文化においても宗教においても「異邦人のガリラヤ」でした。救い主がお生まれにならなければどちらの人々も「暗やみ」のうちに生きる人々でしたし、すべての人々が同様です。
 神様は異邦人のガリラヤ、暗黒の地に住む人々にお言葉どおり、救いの光を届けてくださいました。ベツレヘムでお生まれになった救い主イエス様はガリラヤのナザレで幼児期、少年期、青年期をお過ごしになりました。公生涯において南のユダヤなどとともに、ガリラヤ湖沿岸のカペナウムを拠点として福音を宣教なさり、十字架の死と復活によってこの世界に救いをもたらしてくださいました。
 イエス・キリスト様のお生まれによる福音の恵みは時を経て、わたしたちが住む地の果ての「異邦人」の地にもおよび、「暗やみ」の中に住むわたしたちにも届けられたのです。
「地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。」イザヤ書45章22節

 主がお入り用なのです 2012年1月29日

 「向こうの村へ行きなさい。そこにはいったら、まだだれも乗ったことのないろばの子がつないであるのを見るであろう。それを解いて、引いてきなさい。もしだれかが『なぜ解くのか』と問うたら、『主がお入り用なのです』と、そう言いなさい」。ルカによる福音書19章30、31節
 イエス様は弟子たちの先頭に立ち、エルサレムへ上って行かれました。今で言えば金曜日の十字架を目前にした、日曜日のことでした。オリブ山に沿ったベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、ふたりの弟子をつかわして言われた言葉です。この日イエス様は子ろばにお乗りになってエルサレムの都に入城なさいました。
 ろばは荷物の運搬、農耕に用いられ、人も乗ります。おとなしく、粗食に耐え、暑い地方でも強く、たくましく、長命で、この地方では日常生活に不可欠でした。戦争が始まれば生活の場が戦場と変わり平和な日常生活は望めません。主イエス様は平和な日常の営みに用いられるろばにお乗りになりました。平和の王としてふさわしい入城でした。これは、長い間、旧約聖書に預言されていたみ言葉に基づきます。「柔和であって、ろばに乗る。」(ゼカリヤ書9章9節)とあります。聖書の預言が成就するため用いられました。この子ろばを「主がお入り用」で、主がお用いくださったのです。