館林キリスト教会

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市川副牧師 コラム集(11)

 賛美歌332番 2003年10月5日

 作詞者はフランシス・R・ハヴァガルという方で、1836年、英国に生れました。お父さんは、国教会の牧師で賛美歌の作詞、作曲もしたウイリアム・ハヴァガルという方です。フランシスは22歳の時、ドイツのデュッセルドルフの市立美術館でスタンバーグという画家が描いた「エッケホモ」(「この人を見よ」)という絵を見ました。いばらの冠をかぶり十字架にかかってくださったキリストの絵でした。その絵の下に次のように書かれていました。
 「我は汝のためにこの苦しみをなせり、
  汝はわがために何をなしたるや。」
 彼女はしばらくじっと見つめていましたが、やがて紙切れに思いつくままを書き留めました。英国に戻り、それをもとに作詞しようとしたのですが、思うように書けず、あきらめてその紙切れをストーブに投げ込んでしまいました。彼女は気づきませんでしたが、その紙が床に落ちました。後でそこを通りかかったお父さんがそれを拾い上げ、フランシスに始めの一行を書き直すように勧めたのです。こうして、この賛美歌が出来上がりました。
 作曲者はヒリップ・ポール・ブリスという方です。米国に生れました。少年時代は農場で働きました。やがて音楽を学び、日曜学校の賛美歌の作曲編集に携わりました。その後シカゴ第一会衆派教会の聖歌隊指揮者に任じられました。まれに見る美声の持ち主で、ムーデイーやサンキーなどの伝道集会でもしばしば独唱したそうです。しかし彼は、1876年の暮れに、鉄道事故のために夫人とともに不慮の死を遂げました。38歳でした。
    「栄光、神にあれ 賛美歌物語」より

 真夜中の賛美歌 2003年10月26日

 聖書にはすばらしいお言葉がたくさんあります。次のお言葉も有名です。
 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」
         テサロニケ人への第一の手紙 5章16節〜18節
 私たちの人生において、寄せてはかえす波のように悩みや悲しみがおとずれます。しかし「神は愛である」という聖書のお言葉のように、愛の神様を信じ、喜びと感謝に生きることが、信仰による歩みの特徴かもしれません。
 パウロとシラスという人たちが不当な理由で投獄されたとき、彼らは「神に祈り、さんびを歌いつづけた…」と聖書にあります。看守を始め、みんなが聞き入っていました。その夜、この看守と家族がイエス様を信じて救われました。パウロたちの祈りと賛美の姿が、不思議な平安と幸福に満ちていたからでしょう。
 真夜中のような人生でも、神様の愛を知るなら、喜びと感謝が沸きあがり生きる力が与えられ、その姿は、さらに周りの方々に神様にある幸福をお分かちすることになるのです。あなたも信仰による幸いな生涯へとおすすみください。

 賛美歌244番 2003年11月23日

 この賛美歌は作詞者、作曲者ともに日本の方です。
 作詞者は長坂鑒次郎(かんじろう)という方で、1871年高崎市に生れました。同志社神学校を卒業後、新潟、函館、岡山などで牧会し、その後、神戸女学院教授、神戸女子神学校校長、聖和女子学院神学部長などを歴任しました。新潟で奉仕をしていた頃、宣教師クララ・ブラウンの少年讃美歌集の編集に協力して、翻訳、および、創作にあたりました。
 これは1951年の讃美歌懸賞募集に応募当選したもので、彼の最後の作品となりました。
 作曲者は小山章三という方で、1930年に長野県丸子町の商家に生れました。丸子実業高校で農業土木を学びましたが、上京して国立音楽大学に入り、同大学の音楽教育科第一回卒業生となりました。卒業後、玉川学園高等部で教鞭をとりました。
 この曲は「COME TO ME」と題され1952年、国立音楽大学在学中に作曲し、讃美歌作曲の懸賞募集に応募して入選しました。他の賛美歌に見られない日本的なメロデイーです。 「讃美歌略解」より

 賛美歌310番 2003年11月30日

 作詞者はウィリアム・W・ウオルフォードという方で、1800年代前半にイギリスで伝道していました。彼は盲人の説教者でした。記憶力に秀で、聖書の言葉をほとんど暗記していて、説教する時には適切に聖句を語ったそうです。
 1838年、彼がある教会に招かれたとき、その教会のトマス・サーモン牧師が彼からこの歌を聞き取りました。この賛美歌は1845年に発表され、それ以来、多くの人々に歌われるようになりました。「Sweet hour of prayer」で始まるこの賛美歌は作詞者の信仰の姿をよく表しているようです。
 作曲者は米国のウィリアム・W・ブラドベリで、1859年に作曲しました。
 「讃美歌略解」より