館林キリスト教会

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市川副牧師 コラム集(5)

 賛美歌85番 2001年5月27日

 英国の牧師トマス・オリヴァズという方が、ある日、ロンドンのシナゴーグ(ユダヤ教会)の礼拝に出席しました。その礼拝で、美しいヘブライ語の歌を聞きました。彼は非常に感動し、その歌を独唱したユダヤ人のレオーニという方に頼んで、その楽譜を入手させていただきました。
 彼はこの美しい曲を何とかして賛美歌にも採り入れようと思い立ちました。そこで彼は自ら歌詞を書き、その歌詞に、複雑な原曲のリズムを簡素化したこの曲をつけました。これが1781年版の賛美歌集に掲載され、それ以来広く愛唱されています。
 賛美歌のタイトル「レオーニ」は、賛美歌の楽譜を最初に提供してくださったユダヤ人独唱者の名前にちなんでつけられました。
 この曲の原旋律の出所はわからないそうですが、私たちの賛美歌にも「ヘブライのメロデイー」と記されています。
 この賛美歌は、日本では、1890年「新撰讃美歌」に掲載され、1903年、明治版賛美歌集に編入されました。日本語歌詞については作者はわからないそうです。しかしこの歌詞について「キリスト教的罪観と、東洋的無常観とが一つに結ばれているところに特徴がある」と評されています。
 ヘブライの短調なメロデイーは、私たち日本人によく合うのではないでしょうか。

 賛美歌273B番 2001年6月24日

 作詞者チャールズ・ウェスレーは1707年英国の牧師の家庭に生れました。後に、兄ジョン・ウェスレーと共に牧師となり、生涯を伝道に捧げ、特に英国の信仰復興に携わりました。彼は回心後、毎週数篇の賛美歌を作り、生涯に6500曲以上の賛美歌を作ったそうです。
 この273番は彼の代表作であるばかりでなく、最も有名な賛美歌のひとつです。
 彼は兄のジョンと共に当時英国の植民地であった、アメリカのジョージア州に宣教に赴きました。しかし、伝道は思うようにいかず、翌年帰国。その途中、暴風雨に遭い船は難船しました。この歌詞のように実際「沈むばかりの」経験をしたのです。ようやく陸地に着いた彼は「ひざまずいて、このような、いわば八方塞がりの迷路から、わたしを導き出してくださった主のみ手を心からほめたたえた」と日記に記しました。この出来事が1736年。回心が38年といわれています。この嵐の経験が真の救いの糸口ともなったようです。ですから「わがたましいを愛するイエスよ」と記し、滅びに沈もうとしていた、たましいを愛し救ってくださったイエス様への愛と感謝が読み取れます。この賛美歌は1740年「試錬の時に」と題して書かれました。
 アメリカの説教者ヘンリー・W・ビーチャーという方が、次のような有名な言葉を残しているそうです。「地上に君臨したあらゆる帝王の名誉を勝ち得るよりも、ウェスレーのこの曲のような賛美歌を書きたいものだ。ニューヨーク一番の金持ちになるよりも、このような歌の作曲者になりたいものだ。金持ちは、しばらくすれば人々の記憶から消え去る。その人について何一つ話されなくなる。しかし人々は、最後のラッパの音とともに天使の群れが遣わされるときまで、この賛美歌を歌い続けることだろう。さらに神のみ前で、誰かがきっとこれを歌うことになると思う」
 作曲者はジョウゼフ・P・ホルブルクという方です。1822年、アメリカ、ボストン近郊に生れ、賛美歌作曲、編集、賛美歌集の出版に尽力しました。これは1862年の作曲。リズムが多少複雑ですが美しい旋律で、多くの人々から愛され、あらゆる賛美歌集に収められてきました。

 「ハレルヤ」 2001年7月21日

 洗礼式を迎えて、私たちは喜び、そして御名を賛美しています。
 聖書に「ハレルヤ」という言葉があります。「ハレルヤ」はヘブル語からきている言葉で「主をほめよ」という意味です。「ハレルヤ」は聖書中に28回使われているそうです。旧約聖書に24回、新約聖書に4回(4回ともヨハネの黙示録19章に)あるそうです。
 最初は詩篇104篇35節
 「わがたましいよ、主をほめよ。主をほめたたえよ」と訳されている箇所です。この「主をほめたたえよ」という箇所がヘブル語では「ハレルヤ」となっているそうです。
 聖書中一番最後に記されている箇所はヨハネの黙示録19章だそうです。
 19章1節
 「この後、わたしは天の大群衆が大声で唱えるような声を聞いた、
 『ハレルヤ、救いと栄光と力とは、われらの神のものであり、そのさばきは、真実で正しい』」
 ヨハネの黙示録18章には、地においては「ああ、わざわいだ」という、嘆きと悲しみの声が記されています。しかし、ヨハネの黙示録19章1、3、4、6節にあるとおり、天では喜び、「ハレルヤ」と叫ばれています。
 やがてこのお言葉が実現するときがやってくるのです。

 賛美歌312番 2001年7月29日

 大塚野百合著「賛美歌・聖歌物語」にはこのように記されています。
 これは「月なきみ空に きらめく光 ああ その星影 希望のすがた」という歌い出しの「星の世(よ)」という歌で親しまれてきました。杉谷代水(すぎたに だいすい)氏が作詞し、明治43年(1910年)に発行された「教科統合中学唱歌」第二集に載ったそうです。この曲について、それが賛美歌312番の「いつくしみ深き 友なるイエスは」の曲で、コンヴァースという人によって作られたこと、彼はドイツで作曲を学び、アメリカに帰国後、弁護士になったという注がつけられていたそうです。
 作曲者のチャールス・C・コンヴァースはニューヨークのカレッジを卒業後、大伝道者ムーデイー専属の独唱者であるサンキーなどと日曜学校歌集を編纂しました。その後ドイツに留学、有名なフランツ・リストと親交を結び、帰国後、弁護士のかたわら好きな作曲もし、1868年この歌詞に出会い作曲、世界中で愛唱されています。
 作詞者のジョゼフ・スクライヴィンは1819年アイルランドの裕福な家庭に生れ、名門のカレッジを卒業、幸せな結婚式を直前に控え、式の前日、婚約者が溺死しました。彼は癒すことのできない心の傷を負いつつ、学校の教師としてカナダへ移住しました。彼は、貧しい人々によく奉仕しました。ここで彼を温かく迎えてくれた海軍大尉がいました。やがてその娘エリザと婚約。彼の心も癒され明るい希望が見えはじめました。しかし、彼女は結核にかかり、帰らぬ人となったのです。彼はどんなに深い絶望を味わったことでしょう。彼と同じ苦悩を味わったのは、故郷の母でした。彼は苦悩の中でも、不思議な神の慰めを受けて、母を慰めるためこの詩を書いて送ったと言われています。