希望のダイヤル
更新日:
 小林誠一前牧師
2008年2月24日
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである
 伊藤英雄牧師
2008年2月17日
医者と弁護士と牧師
 小林誠一前牧師
2008年2月10日
平和をつくり出す人たちは、さいわいである
 伊藤英雄牧師
2008年2月3日

自信の欠如
 アメリカのある大学の、心理学の教室で、「今、自分の困っている個人的な問題は何か」というテーマで、学生からアンケートを取ったところが「自信の欠如」と答えた人が75パーセントいた相です。
「自信の欠如」ということは、別の言い方をすれば劣等感で困っているということでしょうね。劣等感に捕らわれると、イライラ、ビクビク、グズグズしていて、自分の持っている能力を充分に発揮できないというのは、現代人に共通した悩みであるかも知れません。
 こんな話があります。昔中国で、有名な孔子の弟子たちが先生に質問しました。
「昔から中国にも、英雄豪傑の話がずいぶんありますが、先生がお考えになると、本当に強い人とはどういう人なのですか」
「それは自分で反省してみて、良心にとがめられるようなことのない人が強い。そういう人は千万人が敵対しても、どんどんやっていく自信がある。反対に良心にやましいところがあると、気おくれがして勇気が出ない」と孔子が教えてくれた相です。
 聖書の中に「悪しき者は追う人もないのに逃げる、正しい人はししのように勇ましい」とあるのも似たような意味でしょう。私たちは生活の問題、家庭の問題、仕事の問題、人間関係の問題を乗り越えてやってゆかねばなりません。人生は本当に戦争です。そのために、聖書は二つのことを教えています。
 第一に、いつも反省して自分の罪を神様に悔い改めなさい。そしてキリストの十字架を信じなさい。私たちの心は、自分の全ての罪が許されている、という確信で明るくなるでしょう。
 第二に、事の大小となくお祈りして、神様に助けを求めなさい。神様を信ずる人には、新約聖書ローマ人への手紙8章31節にあるように「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」という確信と勇気が与えられるのです。   (小林誠一前牧師) 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである
 イエス・キリストが語られた最も有名なお話である山上の説教の第8番目最後の箇所は、「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」です。世の中には、独りよがりの信仰とか、自己のイデオロギーや主義のために迫害を受ける人たちもいますが、キリストはそういう人たちをさいわいな人たちだと言ったではありません。キリストが「義のために」と言われたのは「神の義のために」生きながらなお、この地上にあって迫害を受けている人たちのことを指して言われたのです。
 迫害されるのが好な人はいません。しかし昔から神様に従った人、神と共に歩んだ人は迫害されてきました。聖書に最初に記された最初の殺人、カインによるアベル殺しも、神の喜ばれる生活をしていた弟に対する兄の迫害といえましょう。モーセはイスラエル救出大作戦のため、エジプト人の敵意に直面しました。神による大勝利を収めたダビデはサウル王に妬まれ、命を狙われました。預言者エリヤはアハブ王に脅迫されました。ネブカドネザル王の命じた金の像を拝まなかった青年たちは、燃える炉に投げ込まれました。ダニエルは同僚の妬みによるたくらみで、ライオンの穴に入れられました。初代キリスト教の指導者者たちのペテロもヨハネも、ステパノもパウロ、ヤコブも苦しみに会いました。教会の歴史も迫害と殉教の歴史です。
 私は、福音伝道教団が東京で集会を持つまでは、東京のホーリネス上野教会でお世話になりました。そこでは若い村上宣道先生が副牧師をしていました。先生のお父さんは、戦争中は他の牧師と同様ひどい目にあったそうです。突然に警察に引っ張っていかれ、留置場に入れられてしまいました。お父さんの牧会していた教会は解散させられ、集会は禁じられてしまいました。当時先生の家族は青森市にいて、お母さんはリンゴの袋はりなどして、留守の家庭を支えたそうです。そのお母さんの口からはいつも賛美があふれ、いつもニコニコしていたそうです。お母さんはよく「お父さんは、イエス様のために苦しめられて、きっと喜んでいるよ」と話してくれたというのです。時代が時代だけに村上宣道先生も、学校では「スパイの子」とののしられたり、石を投げつけられたりすることがしばしばあったそうです。しかしそんな時でもお母さんと先生は「きょうもイエス様のためにひどいめに遭ったよ。でも、天国でのご褒美がまたたまったね」などといっていたというのです。こうして戦争中も、クリスチャンとして信仰告白を続けたそうです。  (伊藤英雄牧師)  医者と弁護士と牧師
 「神はわれらの避け所また力である。
    悩める時のいと近き助けである」
という、詩篇46篇のみことばは、神様を信じて生活しているクリスチャンの実感そのままですが、本当に神様は私たちが困っている時、悩んでいる時の、すぐ近くにいる助け主なのです。
 何でも、医者と弁護士と牧師とは、ふだんから仲良くしておくと良いと言われますが、こういう話があります。
 アメリカ、カリフォルニアの小さな町に、ヘルバ−ト・スミスという牧師がいました。あるクリスマスの夜、家中で忙しく飾りつけをしている時、10歳になる男の子が、ドタンと椅子から落ちました。見ると呼吸困難で、その苦しい様子と言ったら見ていられません。
 近所の医者に電話をしたところ、クリスマス休暇で家中で出かけたということでした。
 試しに、ハリウッドの親友の医者に電話しました。医者の言葉、「すぐ子供を電話のそばにつれて来なさい。良く見るのだ。指が内側にまがっているかね。指の色が紫色になっていないか。体中黄色くなっていないか」
 「ああ、ドクタ−・ウェイン、君の言う通りだ」
 「それは“喉頭浮腫(こうとうふしゅ)”だ。すぐ切開しないと助からない。僕が行ったのでは間に合わないのだよ。すぐ近所の医者を呼びなさい」
 でも近所の医者は、どこへ電話をかけても休暇のため留守でした。
 牧師夫婦は絶望の気持ちで、でも一生懸命神の助けを祈りました。
すると、電話のベルがなりました。
 「ああスミス君、ウェインだ。僕の友達の医者が、休暇で君の町のホテルに行っているのがわかった。電話しておいたからすぐ迎えに行きなさい」
 牧師はすぐ行きました。医者の顔を見ると「むすこ、ふしゅ」としか言えませんでした。でもこの医者がすぐ来てくれて、手術をしてくれたので、子供は助かりました。
 牧師は今さらのように、神様が一番近い助けだということがわかった相です。    (小林誠一前牧師) 平和をつくり出す人たちは、さいわいである 
 イエス・キリストが語られた最も有名なお話である山上の説教の第7番目は、「平和を作りだす人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。」です。「平和」という言葉は、ヘブル語で「シャローム」と言います。シャロームという言葉は、「人間の最高のしあわせを作り出すものすべて」、また「人間が果たす最高の役割である、人と人との間の正しい関係」のことであると言われます。だからキリストは「争いを好まない人、平和を愛する人」と語らず、「平和をつくり出す人は、さいわいである」と語られたのです。
 では、どうしたら、平和を造り出す人になれるのでしょうか。
 その第一は、神との和解による平和が成り立っているという事です。使徒パウロは、ローマ人への手紙5章1節で「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。」と言っています。それは罪の悔改めと主イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる平和です。この神との平和こそ、全ての平和の根源であり、基礎であるのです。
 その第二は、神との和解による平和を与えられることによって、人との平和を生み出す人です。
 上毛カルタに二人のクリスチャンが登場しています。そのひとりは新島襄です。「平和の使い新島襄」とうたわれています。明治の初期にキリスト教の伝道に生涯を捧げようと決意し、アメリカより帰国した新島襄は、キリスト教主義の学校を京都に設立しました。当初、学生はわずか8名に過ぎませんでしたが、翌年からは彼の名声をしたって、各地から集まるものが次第に多くなっていきました。
 第一の卒業生を出してまもない時、学生の一組が学校の処置に対する不満からストライキを起こしました。無断欠席で一人も教室に出席しない。
 教授側も、校則によってこのような学生を処分すべきだと譲らない。そこでこの解決のために校長であった新島襄は、教授と生徒を講堂に集めました。新島襄は桜のステッキをもって壇上にあがると、「諸君がこの学校で勉強されるのは、あたかも満開の桜のようなものです。それをささいなことで退校するということは、こころにかかる白雲のようにわたしの心は痛惜(つうせき)に耐えません。今回のことは、最初に学校側の誠意を十分諸君に知らせなかったので、このような不都合 が起こったのです。この間違いは諸君が悪いのではありません。教職員の手落ちでもありません。私の不徳のいたすところであり、責任は自分にあるのです。罰せられるのはこの私です。」そういうと、持っていたステッキを振り上げ左の手を続けざまに打ったので、ステッキは3つの折れてしまいました。驚いた生徒たちも教授たちも壇上にかけあがり、「先生やめて下さい」と叫びながら先生のステッキをもぎとり、先生にあやまり、生徒たちも教授たちも男泣きに泣いたそうです。こうして事件は解決しました。生徒と教授の間に「平和」が戻ってきたのです。  (伊藤英雄牧師)
     
 
 希望のダイヤル2008
希望のダイヤル2007